Chapter 6.0 - Lost
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ありえない。
何かの間違いだ。
描いていた、潮の彼方にある未来は突然姿を消した。
それまで溺れながらも足掻き目指し、縋ろうとしていた小さな島が、一瞬にして視界から失われる。
高鳴る鼓動はまるで疾風の如く駆ける馬の足音のように骨の髄まで響き、奏でられるその音は心中に、同じ呟きを繰り返し囁いていた。
何かの、何かの間違いだ・・・。
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Chapter 6.1 - Lofty Dream
僕の高校の期末試験週間は、厳密には「期末」ではない。
試験週間は、学期末の2週間前に終わるようになっている。
つまり、「期末試験」から「冬休み・夏休み」までの間に、2週間ほど普通の学校生活がある。しかし既に期末試験で1学期の勉強の総復習は終わってしまっているので、この1週間で教える内容というのは次の学期、つまりは2学期の勉強だ。
しかし考えてみて欲しい。
期末試験という一つの大きな合戦を終え、肉体的にも精神的にもボロボロである生徒達が。2週間後から始まる数週間の休暇に胸を躍らせて止まない生徒達が。どうせその数週間のうちに今習ったことは忘れてしまうとたかをくくっている生徒達が。
真面目に授業を受けている姿を想像できるであろうか。
たとえ進学校といっても、こればかりは無理だった。
元々No worries精神で目先しかみない、ホリデーが命の次に大切だと考えるオージー達が、この中途半端な2週間で2学期分の勉強をしろと言われて黙って席に座るはずがないのだ。
試験期間終了後の最初の1週間は祭りである。
勉強という枷から一時的に解放された、筋肉隆々で精神は小学校高学年止まりの男子達、およそ人類で一番危険であろう彼らは学勉での合戦を終えた後、より物理的な合戦を求める。脳をフル活用して知恵を絞った結果、リバウンドで脳筋になってしまうのは仕方がないことだった。連日のように行なわれる荒々しいバスケ、フットボール、サッカー等で負傷者が続出する。
擦り傷と笑顔が同比率で増えてゆく男子をまるで動物園のサルを眺めるように見る女子達は、とにかく喋る、喋る、喋る。喋り倒す。もはや全員が常に独り言を呟いているように見える。
そして食う。散乱するチョコレート、スナック菓子、ジュースパック。
何故かそれに混ざって靴やネクタイや下着までもが転がっている。何があった。
喧騒や混沌という二字熟語がこれほどまでに合う空間は他にない。
祭り熱に燃え浸る生徒達を、教師陣は一定の危険度を凌駕しない限りは止めない。
止めないどころか、むしろ助長する動きを見せる教師も多かった。
数学Cの教室に行けば、
「今日は外がいい天気だから校庭で寝転がりつつ青空教室にしましょう。」
物理の教室に行けば、
「紙飛行機コンテストやるか!2階から投げて一番距離出せたヤツには賞品としてチョコ進呈」
英語の教室に行けば、
「バスケかクリケット、どっちやる?」
日本語の教室に行けば、
「英字幕つきでもののけ姫を観るぞー」・・・これは通常営業だった。
ありえない・・・何かの間違いだ・・・。
などと思うはずもなく。
一見すると制御不能になりつつある生徒に配慮しての自由時間の延長であったが、これは教師自身が受持ちの授業中に休息を求めているが故の行動だとすぐに気づいた。
そう、教師達は教師達で、期末試験というのは大変な重労働なのである。
つまりは採点。試験用紙を赤字で埋める作業に連日追われていたのだ。だからこそ、「祭り状態で勉強には集中できない生徒」を言い訳に、良い訳に、ちゃっかり教師自身が授業中に休息をとっていたのであった。
なんともWin-winが成立している。
そんなドンチャン騒ぎが1週間続いた後には、すぐに試験の答案用紙が返ってきた。
1学期が終了前に生徒達に結果を返却、確認させるために急ピッチで採点されたものだ。教師も人間、採点ミス等があるかもしれないので生徒自身に採点を確認させ、採点の間違いがあったり、納得のいかない答案があれば教師と意見を交わせるよう時間的余裕がある。
それまで席につくこともままならなかった皆もこれには大人しくなり、黙って答案用紙をめくる音だけが教室に響く。周りと同じように、僕も続々と返却されてくる答案用紙の点数を淡々と確認していった。
返って来る試験に対する不安はない。
今更不安になっても意味がないと分かっていたし、そこそこ自信があったからだ。
英語は安定のC評価。この科目は捨てているので狙い通り。
数Cは総合A‐評価。計算問題では二問以外満点、文章問題でも一問のみB評価で残りはA。
日本語は当たり前のようにA+評価。A+というか100点満点だ。逆に100点を取れないと困る。
物理、こちらもA-評価。A-だが、クラスで2番目という輝かしい好成績。
最後の数BもA+評価。計算問題の単純ミスで1点を失った以外、ほとんどミスは見られなかった。
化学は時間切れで最後の数問を白紙のまま提出するという大きな痛手があったものの、
それ以外の回答は安定した点数を取れていたため、なんとかB評価には収まっていた。
10年生の頃とは違って苦手科目が無くなった分、期末試験の結果は派手になったように思う。気合いを入れて望んだだけあって、結構な好成績を収められたのではないだろうか。内心そんなことを思いつつも、同時に疑念の気持ちも膨らんでいった。
なにも苦手科目が無くなったのは僕自身だけではないのだ。
見渡せば、それまで黙って自分の結果を確認していた奴らにも普段の喧騒が戻りつつある。笑顔で周りのみんなと回答を見せ合う彼等の答案用紙にも、正解を表す赤い合印が溢れていた。
うん、去年と比べて高評価の比率が上がっているのは僕だけではないはずだ。そう考えると、A-という評価は決していいものとは限らない。そして何よりも、B評価を取ってしまった化学は大きく響いてしまうのではないだろうか・・・。
疑念は日々を追うごとに膨らんでいき。
ふわふわした僕の気持ちとは裏腹に、11年生の1学期最終日は淡々と訪れた。
毎回のように、最終日は学年総成績順位が発表される大事な日だ。
1学期を終えた時点の成績で、自分は学年何位辺りにいるのかを知る日である。
同時に明日からホリデーという日でもあり、多くの生徒はその事実のほうでテンションが上がっているようだったが、僕としては10年生の終わりの時点で立っていた64位という順位からどこまで成績を伸ばせているのかを見るための大事な日でしかなくテンションはむしろ普段より若干低めに設定していた。
テンションは上げてはならない。過度な期待は禁物だ。
期待しすぎた後で期待にそぐわない結果だったときのダメージが大きくなってしまう。そう言い聞かせて自分を押さえつけてはいたが、どうしたって本心は期待してしまう。
60位以上である、学年の半数以上であるという期待は根強く自分のテンションを上げようとしてきた。
自分の順位を担当の教師に訊けるのは、朝休みになってからだ。
朝休み前の教室で校内新聞が配られ、その後になってから順位を聞きにいける。
いよいよ順位を聞きに行くんだ・・・。
果たして60位以上なのだろうか・・・12年生の終わりには30位までたどり着けるだろうか・・・。人生すら左右されるかもしれないその発表を20分後に控え、緊張し始めていた。
期待を膨らませすぎないよう必死に自分自身を押さえつけていると、校内新聞を配っていた先生が僕にも一部を差し出し、笑顔と共に意味不明な言葉を一方的に送ってきた。
「Good job!!!」
・・・特にこの先生に対して何かをした憶えはない。
意味の分からん称賛には適当に愛想笑いを返しておいた。
今は称賛の理由を聞き出す余裕もない。高まる緊張を抑えるのに必死だった。その緊張を紛らわすため何か作業に集中しようと思い、ふと手渡された校内新聞に目を落とす。
1学期最後の校内新聞には学年別の成績上位15名の名前が並び。
11年生の欄には、本来そこにあるべきではない名が一つ。
ありえない。
何かの間違いだ。
その名前が自分自身のものだという認識を持つのに3秒かかったが、認識したと同時に今度は自分自身の認識を疑った。
一度、目を離し再度読み直す。
やはりそこには自分と同姓同名の文字が、はっきりと記されていた。
ありえない。
何かの間違いだ。
何かの、何かの間違いだ・・・。
頭は真っ白になっていた。
それまで自分自身を押さえつけようとしていた精神は仕事を全うしようと必死になっていた。
現実逃避をすることで、これを受け入れないように。
想定外の事態を、無かったことにするために。
そんな僕の周りに、同級生の友達が集まってくる。
「おめでとう!」
「すげーなぁ」
「んだよー俺はお前より一つ下かよぉ・・・!」
彼等の言葉は強制的に現実をもたらし、認識させた。
最初は意味不明だった先生の言葉を思い出し、認識させた。
汗ばみ震える指で校内新聞をなぞり、上から順番に名前を数えてゆく。
1・・・2・・・3・・・4・・・5・・・6・・・7・・・8・・・9・・・10・・・11・・・
12番目。
12番目にあるのは、正真正銘、僕の、僕の名前だった。
学年順位を訊きに行く必要は、なくなってしまった。
120人中学年12位という事実は不意にもたらされた。
描いていた、潮の彼方にある未来は突然姿を消した。
それまで溺れながらも足掻き目指し、縋ろうとしていた小さな島が、一瞬にして視界から失われる。
高鳴る鼓動はまるで疾風の如く駆ける馬の足音のように骨の髄まで響き渡っている。
否。
海洋生物学というすがるべき陸地は、消えたのではない。
目の前から消えてしまったのではなかった。消えてなどいなかったのだ。
自分でも気づかないほど一瞬で、瞬き一つの間だけで、その舞台に立ってしまっていただけだった。その地に立っているからこそ、もうその地は見えない。遠くにあるものが一瞬で足元に移動してきたとき、それが目の前から消えたと錯覚する。
海洋生物学を目指し、OP4を目指して戦ってきた数年間に、唐突に終止符が打たれた。
この学校の学年12位は、文句なくOP3以上のスコアを意味する。
この成績さえ維持していれば、海洋生物学の夢はほぼ安定して叶うだろう。
人間は多くの生物の例外にもれず貪欲である。
時には一つの目標を達成してしまうと同時に、次の目標を追いたくなってしまう。
家に帰り、興奮のあまり母に校内新聞を叩き付けて、言った。
心の片隅に封印していた、夢のまた夢であるその単語を、言った。
「おい・・・獣医学部が見えてきたぞ・・・」
鼓動に馬の足音を聴いた青年は。
荒波の中から一転、海洋生物学という陸に立った青年は。
海から這い出た青年には、今度は陸の先にそびえ立つ崖を登ってみる余裕ができた。
高嶺の花を摘み取りに行く準備は、唐突に整った。