とある獣医の豪州生活Ⅱ

豪州に暮らす獣医師のちょっと非日常を超不定期に綴るブログ

とある獣医の豪州生活Ⅱ

僕と英語と、移住と学校。⑤

 

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Chapter 5.1 - Planning

緊張の解かれた校内は普段通りの騒がしさで包まれていた。

近しい夏に向けて漲る体力を押さえきれない若者達を止める術は教師にはなく、唯一の抑止力であった、「一番大きな子供達」の姿ももうそこにはない。箍の外れた後輩たちの上げる喜声の中でも特に大きいのは次期最高学年達であろうか。

12年生がQCSテストを受けている間にキャンプという名目で地方に隔離されていた生徒達は、普段通りの学校に戻ってきてみればそこにはすでに12年生達の姿はあまり残っていなかった。QCSテストを終えた12年生達は事実上学業を修了したようなもので、あとはまだ若干だけ成績に響く期末試験を終えれば、残りは部活動だけで登校義務は無くなる。校内に見られる少数の12年生は、IB試験を控えて最終追い込みを行なっている人達だけだ。


10月は校内の空気ががらりと変わる時期である。

それまで様々な実権を握っていた12年生の消失は、全学年に響く大きな問題だ。

基本的に学校というものは絶妙なパワーバランスで成り立っている。例えば、休み時間に学年別で集う場所が決まっていたりするのがその典型。12年生が休み時間に使っていた休憩室はもぬけの殻となり、空いたニッチには11年生が入り込む。

11年生が新たなニッチを確認したことによって、それまで守りの堅かった11年生の縄張りを、今度は僕達10年生が獲得できる絶好のチャンスでもあるわけだ。

彼らが縄張りにしていたのは学食エリアの机全般と、校舎の中央廊下。食料、クーラー、アクセスの便利な大通り。色々と揃った良い場所である。学食前は昼食時に席の確保を心配する必要がなくなる場所だし、中央廊下は朝休みなどの短い休み時間には一番移動が楽で融通の効く場所。休憩室を除いた学校内での一等地。

誰が示したわけでもなく、誰が指揮を取る訳でもなく、こうした「縄張り」の変化は一種の通過儀礼として起こるのだ。学年ごとに教室を持たない学校にとって、これは非常に大事な行事だった。

 

大事なのはなにも縄張り争いという生徒同士の暗黙の問題だけではない。

10年生の10月というものはいよいよ「進路」というものを考え始める時期である。それまで散々やりたいことをやらせてきたオーストラリアの教育方針が、いよいよ向きを定め始めるのがこの10年生の10月だ。

12年生の最終試験の指揮を執っていた教師達が、息をつく間もなく2年後の12年生の世話をする。

 

QLD州における10年生と11年生の学業では大きな違いが2つ生じる。

 

一つは選択科目制度が本格的に実施されること。

10年生までは、英・理・数・社・体・道徳と、大半の必須科目に加えて少数の選択科目があったが、11年生からは必須の英語と数学の2教科を除き、他の3~4教科は完全に生徒に委ねられる。芸術系に向かうか、体育系に向かうか、文系に向かうか、理系に向かうか、10年生で選ぶ教科は、そのまま大学進学において必要な入学時必須教科に繋がる。

もう一つの違いは、最終学業成績の形の選択。

僕の通う学校では地域では珍しく、OPとIBの2種類の最終試験を採用していた。どちらかを、またはどちらも選択することで、授業時間や内容、選択科目が変わってくる。

OPというのはOverall Positionの略で、QLD州の学生全体で、総合何位の成績なのかを数値化したもの。僕達がキャンプ地に隔離されていた間に12年生が受けていたQCSテストも、OPの一環だ。この数値の出来のよさを基準に、大学から学部のオファーがもらえる。

一方で、IBというのはInternational Baccalaureate、国際バカロレア資格の略。こちらは世界100ヶ国以上で認められた、学業成績の数値。OPの数値がオーストラリア国内の大学入試に役立つものなのに対して、IBの数値は豪州国内だけではなく、国外の大学入試の際にも成績を提示しやすい。

こうした選択を迫られる際、オーストラリアでは「どんな大学の学科に入りたいか」が大事になる。どこの大学、という日本の考え方とは少し異なるのは、一つに大学の入試試験がないからだ。

大学の学部に応募する際、大学側は応募者の最終学歴、科目、そして成績を確認し、事前に必要とされる科目で優秀な成績を収めた者から順番に入学のオファーを出す。学部には定数が決まっているので、成績の良い順番から一定数に達すればオファーを出さない。

言い方を換えるならば、選択科目によって応募できる学部が決まり、OPやIBの数値によって、その学部に入れる可能性が決まるのである。

よって、10年生ではまだ大学のどんな学部に入れるか、という成績的な面では何も言えないが、11年生の選択科目の内容を決めるにあたって「どんな学部に応募したいか」という、進路方向は決めなければならない。

 

学校側はこの難しい選択を応援するため、各大学の担当者を招き入れセミナーを数回開いた。生徒達は大学の関係者と学部についての話をし、興味を持った学部の情報などを聞き出す。生徒側にとっては進路先を決める手助けになり、大学側にとっても新入生獲得のチャンスになるのだ。

自由奔放な学校生活が一変、少し緊張し始める。

その空気に、精神的には小学生で止まっているであろうオージー達はそれでも陽気に笑っている。皆が「楽しそうな学部」を求めてセミナーのブースをハシゴする中、僕も内心ワクワクしていた。

海洋生物学の講師や大学生はいるだろうか、面白い話は聞けるだろうか!

ブースを3つ4つと周り、質問するうちにそんな考えはすぐに無くなった。何しろマイナーな学部である。そんな学部があるのかどうかも知らない担当がほとんどだった。「生物学」という単語から理系学部のパンフレットを押し付けてくるが、詳細は一切分からない。

分かったのは、理系科目が2つと数学が必要だということだけ。すでに知っていた情報の再確認に終わってしまった。

しかし、このセミナー自体が進路を決めかねている生徒のためのものである。端から理系方面を目指していた僕にとって、選択科目の問題は大したことはなかった。どんな学部に行くにしろ、理系2教科と数学Bが条件なのはほとんど変わらない。皆が悩む中、僕にとって教科の選択は簡単なのである。

 

英語、数学Bに加えて、化学、物理学、数学C、日本語の4教科。

1学期のときに苦手と判断した生物学を取らず、得意の数学の日本語で成績を持ち上げる。完全理数系の形を考えていた。生物学がなくとも、化学と物理学で理系科目は2教科取っているから大学進学も問題ない。簡単な話だ。

 

否、そこまで簡単にはいかなかった。

 

きっかけは学校で日本語を教える教師、クマヤマ先生の行動であった。

日本語の授業中、さすがに授業内容が簡単すぎて暇を持て余した僕を含む日系生徒3人に、クマヤマ先生は数枚のプリントを渡してきたのだ。

開いてみると、なるほどどうやらこれは日本語のテストのようである。今、授業で教えているものとは圧倒的に異なるレベルの出題。日本の中学・・・読解等は高校レベルまであるのだろうか。

日本語の授業は僕や他の日系生徒にとっては休み時間の延長だ。正直、いきなりペーパーテストと言われてもやる気が出ない。が、普段は教室の隅でポケモン談義に花を咲かせまくっていても全く気にしないクマヤマ先生ではあったが、何を思ったかこの日に限っては割と真剣なトーンで答案を要求してくる。

仕方がないので、サラサラと問題を読んで、サササッと回答、提出しておいた。

日本の中学生でも若干難しいかもしれないその問題は、それでも英語が理解できなかった当時、活字を求めて狂ったように読書をしていたのでなんてことはない。

それからも何度か、僕達がアホみたいな談話を教室の隅で始めようとすればクマヤマ先生はやってきた。毎回、似たようなレベルのペーパーテストを持ってくるのだ。同じ日本人でもオーストラリアで生まれ育った友人にはちょっとした拷問ではあったが、僕にとっては自分の日本語力を測る、ちょっと面白くもある教材にすぎなかった。

 

10月になると、そんなクマヤマ先生が僕と母を学校に呼び出した。

「11年生からの勉強ですが、IBを受けてみるのはいかがでしょうか」

開口一番、彼の口から出てきた言葉はこんなものであった。言葉と共に彼の懐から出てきたのは、授業中に簡単に埋めたペーパーテストの数々。

「これらは授業中やらせてみたIB DiplomaのJapanese HLの過去問です」
「彼は予備知識もなくこの試験を受け、高得点を出しています」
「少し勉強すればIBの科目の一つ、Japanese HLで7点は確実に出せますよ」

 

クマヤマ先生はIBの簡単なシステムと共に意味を説明してくれた。

IB Diplomaは先に述べたとおり、この学校が用意した最終試験方法の一つだ。IBでは6つの教科を2年間学び、それらで試験を受け、各科目最高7点で評価される。それに加えて別の小論文が3点評価され、45点満点の数値をもらう訳なのだが、6教科の試験のうち、半分の3つはSL(普通レベル)、残りの3つはHL(ハイレベル)で受ける。HLの試験はSLよりも知識量が多く必要とされ、難しいので、どの教科でSLを、どの教科でHL試験を受けるかがIB試験の大きな鍵の一つになるのだ。

そこでクマヤマ先生は、興味本位でもあったのであろうか、日本語が得意な僕達に試しにIBを受けさせたのだ。結果、何も事情を知らない僕はHLのIB試験を適当に埋め、これがなかなか良かったらしい。

「日本語でHL試験が一つ潰せ、7点評価がかたい。残りのHLは2教科でいいんです」
「これは素晴らしいアドバンテージになると僕は思いますよ」

クマヤマ先生は再度強調した。普段は至極適当でのほほんとした先生が、この時ばかりはしっかりと先生に見えた。

 

考慮に値する情報だったが、話し合いの結果、最終的に僕はIBを切った。

理由の一つ。

IB試験は12年生の終わりに行なわれるものであり、試験範囲は11~12年生までの2年間で学んだ内容全てという、とんでもなく大きな一発勝負であること。

僕は一世一代の一発勝負が嫌いだった。

ポジティブ思考に変わったとはいえ、根はリスクを嫌い堅実に一歩ずつ進みたい人間であることは、未来の見えない7~8年生という闇を我武者羅になって泳いだ張本人であるから分かっていた。

OPが学校の課題、テスト、試験毎につく成績が反映される『一歩ずつ型』なのに対して、IBのそれはあまりにもリスクが大きい『一発勝負型』であるから嫌うのは至極当然であった。

もう一つの理由は、選択科目の制限だ。

OPであれば先に述べたとおり、英、数B、数C、化、物、日の、得意な6教科で固められるが、IBではシステム上、数学を2つ選択することができないのである。

では数学を一つ除いて変わりに何を入れられるかというと、僕にとって一番成績が取れそうなのは地理になるのである。たしかに地理であれば理系の延長だからなんとかなるかも知れないが、確実性の高い数学Cを切ってまで地理で冒険する余裕が僕にはない。

さらに言えば、英語の試験の点数がIBの成績に響くのも嫌いたくなる理由である。OPシステムでは6教科のうちで出来の良い上位5教科が成績に反映されるシステムだが、IBは6教科全ての成績が反映されてしまう。やはり英語が苦手でありA評価など取れない僕にとっては、OPシステムで英語を無視できたほうが相性がいいと思ったのである。

 

その旨をクマヤマ先生に伝え、OP一点を決定したところでようやく僕の選択科目問題は解消された。

明らかに変わった学校や教師の僕達に対する構え。

じわりじわりとにじり寄ってくる本格的な学業戦争を肌で感じ始めるが、僕には未だにその先に待つ敵も戦況も戦術も分からない。

 

ただ分かるのは、戦って、戦って、戦い抜かなければならないということだけ。

 

 

Chapter 5.2 - Kick Start

QLD州では8~12年生までをハイスクールと呼ぶが、実際のところでは8~10年生までは中学生だ。中学生と高校生の線引きは10~11年生の間に存在しているが、結局はどちらも『ハイスクール』。卒業があるわけでもなければ校舎が変わるわけでもない。よって、10年生という『中学生の終わり』はひどくあっけないものだった。

案の定、終業式といった時間を無駄にし貧血の生徒を倒れさせるだけの意味不明な儀式は行なわれない。しかし一方で、2学期最後の日というのは僕にとって非常に大事な日でもある。

学年別の、総合順位が発表される日だからだ。

朝休み、今年最後の学校新聞が配られる。

学校新聞の一面にはいつものように、学年ごとの成績上位15名の名前が並んでいた。
9年生でこの学校に転入してきてから、学校新聞でこの順位を眺めるのももう4回目である。

無論、僕の名前はない。火を見るよりも明らか。

しかしそこに並ぶ名前はどれも見覚えがある。どれも前回、前々回の新聞にも載っていた名前であろう。毎学期ごとの成績上位者にはさほど変化が生じず、変わる部分といえばせいぜいが5~15位までの並び順だ。

1~5位辺りは順位変動すらもほとんど起こらない不動の天才陣で固められている。

これが格差。どうしようもない力の差。崩せない壁は成績上位15名という題名の元、学校新聞に堂々と照らし出されていた。

成績上位15名の発表のワクワク感を損なわないため、学校側は各自の順位発表を新聞発行後に行なう。発表方法は、各自が担当の教師のオフィスに赴き、名前と学年を次げて順位を確認してもらう、というもの。

このシステムの必要性が僕にはイマイチ理解できない。上位15名はいつも通りの面子。彼らはどうせ新聞で確認できるのだから聞きに行く必要もないであろう。

一方、オフィスに赴き順位を確認するのは上位15位に入らないと確信している生徒がほとんどのはずだ。新聞発行前のワクワク感など持ち合わせている生徒はほとんどいないのではないのか。だからわざわざ学校の最終日の、朝休み以降にしか順位を聞けないシステムにする必要はないだろうに。

 

そんな少し卑屈な文句を僕自身の中だけで呟きつつ、担当のオフィスを訪ねる。

名前と学年を申告し、10年生としての僕の成績を確認してもらう。

前の学校からの勉強の遅れに苦しみ、エッセイの書き方で苦しんだ9年生の最終順位は78位だった。120人中の78位。半数にも届いていない結果であった。それを踏まえて夏休みは英語の教科に全てを費やした。勉強も追いついた。未だに苦手科目ではC評価もよく出していたが、得意科目ではA評価も出してきた。

そんな10年生の成績が、11年生という戦争直前の僕の立ち位置が、担当から言い渡される。

 

64位。

 

10年生120名中、64位。

 

中の中の下。

上位50%に、入れていなかった。

9年生に比べれば英語力も勉強面も、かなり進歩したつもりでいた。が、現実は甘くなく、最終的には順位を14伸ばしただけで終わっていた。

留学を始めて3年半の学生が、進学校で真ん中につけていることを良しとする人もいるだろう。しかし僕にこの数字は良しとはいえない。

大学の海洋生物学部に入るには、OP4が最低条件だ。進学校とは言っても、成績60位でOP4が取れるほど甘くはない。OP4を狙うのであれば、最終的に上位30位辺りに滑り込む必要があるだろう。

勉強量が飛躍的に増え内容も難しくなる11年生を前に、64位という数字は厳しく見えるだろうか。

 

否、そうではない。

 

実際、78位から64位にまで着実に伸びているんだ。

何だかんだといっても、今年一年間だけで順位を14伸ばしたことは揺るぎない事実。ならば、残りの二年間であと30人ほどの成績を抜かし、上位30位付近に入ることは現実味を帯びる。

足を引っ張っていたであろう英語や歴史等の科目も、来年からは反映されなくなる。今以上に勉強し、得意科目の成績を伸ばし、次の2年間でなんとかあと34人を抜かすんだ。成績上位者は鉄壁の壁だろうが、別にそれは成績上位に入れないわけではない。

他人の成績は自分の成績を左右しない。あくまでも自分でどこまでやれるかが鍵になるだろう。走り幅跳びで遠くに跳べないのは、地面が手前によってこないからではない。自分自身の踏み込みと助走の問題だけだ。

 

そういうわけでまずは『助走』をつけることにした。


10年生の夏休みが。

開戦前の夏休みが。

学年総合順位64位の夏休みが始まった。

 

留学を始めてからというもの、夏休みは決まって英語力の強化を行なってきた。

が、今回のそれは英語ではなく、『勉強の強化』。

僕が来年選択する科目は、英語、日本語、化学、物理学、数学Bと数学C。

この中でも特に難しいとされるのが、三段階ある数学の一番上、数学Cだった。学校新聞の成績上位者がひしめくであろうこの数学Cは、いくら数学が得意と言っても限度がある。

そこで、数学Cの一年間範囲を夏休みの2ヶ月で早々に終わらせてしまおうと目論んだ。来年学校で使う教科書を独自に取り寄せ、アドバンテージを作っておくことにしたのだ。日本語とあと一教科のアドバンテージがあれば、他の教科にしっかり専念できるというわけである。

ただし教科書を睨んだだけでは無理があった。

なにしろこの数学C、日本の数学で言うところの数ⅡB、数ⅢC、そして大学レベルの数学まで混ざっている。すでに日本の高校数学ⅡBとⅢCは参考書を使い自習でほぼ網羅していた僕でも、日本の高校で教えないようなマニアックな内容はどうしようもなかった。

そこで秘密兵器を呼ぶ。

センパイのつてで、「天才ピーター」なる男を紹介してもらったのだ。

天才ピーター、数年前にセンパイや8年生までの僕が通っていた高校でOP1を取ったOBである。彼の頭脳はまさしく天才のそれであり、数Cの家庭教師を頼むと軽く承諾してくれた。

勉強内容が知りたいという彼に教科書を渡すと、ピーターは分厚い教科書をなんと一日でほぼ網羅し、マンツーマンの家庭教師が始まった。

学校やチェスの世界ですでに天才という存在を見ていた僕は。

実際に目の前で勉強を教える天才を知ってしまい、戦慄すら覚えた。

 

当初、2学期一年間をかけて教わる筈の数Cの内容を、たった2ヶ月という夏休みの期間内でどこまで学べるか分からなかった。

しかしピーターは言った。

 

「正味10日で全部教えられるよ」

 

一日目、彼は20章ある教科書の最初の2章を丸々教えてきたのである。

二日目、前日の復習の後に次の2章を教え、

五日目が終わる頃には教科書は後ろ側から開いた方が早くなった。

 

莫大な量の知識を流し込まれ、脳は細かく震え熱を出し続けた。しかしどうしたものか、これだけハイペースな勉強であっても吸収率は思いのほか良い。

日本数学の参考書という予備知識が若干活きたこともあるが、それだけではなく。

ピーターは確かに天才ではあったが、勉強を教えるのも非常に上手かったのである。数学はただの暗記ではなく、後ろにある法則の原理を理解する必要があるが、不器用な天才とは違い、彼は細かく噛み砕き、わかりやすく原理を説明する才能もあった。

 

二週間を待たずして一年分の数学の知識が授けられた。

 

想像を絶するスピードで数学の知識を得た僕は、残りの夏休みをバイトに費やす。16歳と半年ともなれば、オーストラリアではもう普通にバイトとして雇用され、一時的だが税金まで払う。僕もその流れに習い、今まで不定期的に世話になっていた庭仕事の手伝いを辞めて職を探した。

16歳半の子供を雇ってくれる場所は限られる。ファーストフード店などが主だ。が、英語という面で不安だった僕は、試しに近くの回転寿司屋に履歴書を持ち込んだ。日本人が経営するここであればバイリンガルが武器になるからである。

履歴書を持っていったその時にすぐ面接が行なわれ、採用された。最初は皿洗いから始まり、ウエイターになり、すぐにキッチンに入れられる。母や知人や学校関係者とは違う大人に、怒られ、責められ、誉められ、はやし立てられ。

学校では学べない『社会』の知識を学ぶ最高の刺激になった。

初めての給料は母と知人のおじさんに日頃の感謝をこめて昼食をご馳走し。

残りの給料は夏休み分を丸々溜めて未来に備えた。

 

Chapter 5.3 - Senior High School

11年生になった、という実感が最初に湧いたのは新しい制服を見たときだろうか。

同じハイスクールでも、10年生までが中学生だとすれば11年生は高校生、という境目が存在する。そしてその境界線を超えた11年生は授業体制や勉強量等と共に、制服のデザインが少し変わるのだ。

とは言ったものの、僕達男子生徒の制服は大した変化はない。それまではただの白地に学校のロゴが入ったワイシャツだったものに、ストライプが入るだけだ。ブレザーを着れるという大きな違いもあるが、学校が始まる2月は連日の気温が30度を超える。ズボンも変わらないので、男子にとってこの些細な変化は下級生に対する権力の誇示以外に意味を成さない。

一方、女子生徒の制服は上のシャツこそ同じ白地でほとんど変化がないのだが、スカートのデザインはそれまでのプリーツ・スカートから一変、セミタイトになる。子供っぽいプリーツから一転、大人っぽいセミタイトを身につけた同級生には違和感を感じるはずだが・・・

 

はずだったが、何故か最初に目撃したセミタイト・スカートの同級生は男子生徒であった。

 

一時限目に体育のある女子から借りてきたらしい。高校生であれなんであれ、やはり考えることは小学生と同レベルなのだ。この陽気さは僕に安心感を与えてくれる。しかし女装男子よ・・・投げられたお前のズボンが木のてっぺんに引っかかってるぞ。

 

そんな和やかな雰囲気に包まれる屋外とは違い、教室内の空気は二極化していた。

教室の後ろで久しぶりの仲間達との再会に馬鹿騒ぎを続ける生徒達は、〈12年生から本気出す〉がモットーの、10年生の空気をそのまま引き継いだ集団。カバンを放り、椅子を集めて皆で談笑している。

一方、教室の前のほうは静かに、そして着実に椅子取りゲームが行なわれていた。

教室で前のほうに座る集団というのはどこも国でも決まって、勉強に本気な連中である。この〈11年生も本気出す〉集団達は、初日の席の重要性をよく知っていた。

基本的に自分の席というものが決まっていないのが移動教室制度の学校ではあるが、それでも毎回ほとんどの生徒は同じ席に座る習性があるもので、その際、隣りの生徒がその科目の勉強仲間として最も近しく、頼りになる。

後ろで喚いている連中は楽しい仲間を求めて席を決めていくが、前衛班の場合は学力という面も重視しつつ、お互いを牽制しながら各々が席につく。

数学Bと数学Cの教室では、10年生のキャンプの際に親睦を深めたショーンと組んだ。数学に関してはどちらかと言えば僕がショーンを助ける役割のほうが多くなるだろうが、9年生の頃から数学の特進クラスにいたショーンは数学の問題の理解力と解くスピードはなかなかであり、何よりお互いになかなかどうして意気投合していた良い仲間であった。

物理ではやはりショーンと、もう隣りにはジョッシュを置き、化学ではジョッシュと、OPとIBの両方を受ける友達を置いた。皆、勉強熱心で向上心があり、お互いを助け合える面子ばかりで構成されていた。お互いを助け合い、お互いに成績を伸ばせるであろう面子それぞれが自然と集まっていたのだ。

 

おおまかな席と教室の空気が出来上がる中、11年生の授業が始まる。
その内容が一気に加速すると言われている、11年生の授業が始まる。

 

それでも数学Bの授業は大したことがない。

既に日本の高校数学の参考書を大方終えていたので、関数や三角比は見慣れたものだった。クラスの授業はそれでも真面目に受け、出された問題や宿題はそつなくこなしたが、難しくは感じないので、大して復習をしなくても済んだ。

 

そんな数学Bよりもずっと大変とされる数学Cだったが、これもおよそ安定していた。ピーターとの予習で一年分の大まかな内容を理解していたので、所々忘れていた内容も、授業で再度学んだ際の吸収率は高かった。が、それでも数学Cで出る問題は一問が非常に大きな問題等が多く、また文章問題主体になりやすい。基本の予習はできていたが、出される宿題の多さと文章問題に多少苦しめられることになる。

もしも予習をしていなかったら、もっとずっと大変なことになっていたかもしれない。

 

物理は教師に恵まれ、僕のお気に入りの教科になるのにそう時間はかからなかった。速度やベクトル、円運動、運動量やエネルギーといった内容はどれも数学の一部であり、それらの法則を理解する上で行なわれる実験は、ボール一つで説明可能であった。

視覚的・数学的に理解できる物理は言葉のハンデが非常に少なかったのである。

唯一、数学と違う部分は数学的解釈を行なう前に文章問題を解く必要がある部分だったが、物理法則を問う問題のシチュエーションはどれも似ているので、問題を数こなしていれば良かった。

 

一番難しいと感じたのは化学の授業。

化学の教師は初日から僕達を大学生のように扱い、皆が苦労した。それまでは白板に一字一句書かれる板書をノートに写し、教科書に従い問題を解いていた僕達であったが、この化学の教師は自らが用意したパワーポイントを使用し授業を進めるのだ。

一定時間、板書を取る時間を与えたらすぐに次のスライドに移動してしまう彼の速度に、教室全体が置いていかれて皆が文句を垂れた。

「こんなスピードにもついてこれないようでは大学に行ってから手も足も出ないぞ」

初日から、これが化学の教師の口癖になった。

ただでさえ英語を書き取るスピードが遅かった僕に、彼の授業は非常に厳しかった。が、隣りの仲間達にノートを写させてもらい授業を乗り切る。

化学は数学や物理ほど数字に偏った教科ではなく、少し苦労した。特に一番最初の内容が有機化学であり、暗記内容が多かったからである。それでも内容が濃度や化学分析になるに従い数学的要素は増えていき、暗記力よりも応用力を求められるになれば苦労は減っていった。

 

気合いの入る理数系の教科に比べ、英語の授業は10年生の頃から対処は変わらない。

あくまでもC評価を目指す姿勢を崩さなかった。

11年生からは6科目中の上位5科目の成績が反映される。僕にとって英語が一番苦手科目なのは明らかであったので、留年を避ける以上の点数は必要なかった。

11年生からESLの授業は科目として存在せず、放課後の居残り教室として機能していた。これは留学生にもESL意外の6教科を選択できるように学校側が用意してくれたシステムだ。今までのESLは『英語の勉強』としてネイティブの小学生が使う教材等を使用していたが、11年生からはもっぱら、授業や課題で分からない部分の補助役として機能するようになる。

よって、英語の授業で出る課題等はその多くをESLで仕上げた。ESLの先生はC評価を取れる安定した書き方を教えてくれるので、丁度良かったのだ。

 

1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎる頃には。

 

学年内にも、早速授業についていけなくなり始める生徒がちらほらと見え始めた。

聞いていた通り、授業のスピードは一年前のそれに比べてはるかに早く、また内容もより難しくなっていることを授業について行っている連中は分かっていたが、置いていかれた生徒は、教科ごとに出題され始めるテストや課題に直面してようやく気づく。

 

数学Bのテストを、僕は難なく満点近い点数でこなした。これは当たり前だ。一方、数学Cのテストはクラスで2番目の成績と、少し納得のいかない結果になる。夏休みに予習し、出される問題等も散々復習していたが、一人に抜かされた。

僕より一点だけ点数が高かった奴は天才組の一人であった。テスト前、夜までゲームに没頭していたと皆に笑いながら語っていた奴に、結局負けたのだ。

天才の壁は幾度となく実感していたが、これはひどく悔しかった。


物理と化学はテストではなく課題が出た。

物理の課題は運動についてのレポートで、校外授業と称してなんと遊園地に赴いた。課題となる乗り物の長さや角度、速度を測り、物理的な運動の計算などを提出するものだったが、ショーンと共に早々に測定を終えた僕達は一日中、課題とは得に関係ないジェットコースターに乗り続ける。課題自体は計算が多く、最終的にはクラスで2人しかいないA評価を貰った。

化学の課題は有機化合物についてのリサーチ。

計算が入る余地はなく、苦労することになった。また、授業のときから大学のスタイルを貫く教師だったため、レポートの書き方に非常にうるさく、おおよそ初めて書いた科学論文はそれでも踏ん張ってB評価に終わった。

 

一方、こうした物理や化学の課題でESLの弱点が浮き彫りになってしまう。今までは他の科目の課題の文法等をチェックしてくれていたESLの先生だったが、11年生になって僕達の勉強内容が難しくなり始めると、英語以外の教科の課題に根を上げ始めたのだ。

過去にESLを受けていた留学生達は、そこまで勉強をしない生徒ばかりだったらしい。こうした留学生達は美術や音楽といったいわゆる『簡単な教科』を選択していたし、課題の文法を直さずともC評価が取れればそれでいい、というスタンスを持った生徒達であった。

しかし僕の学年はそうではなく、僕と他2人のアジア人、全員が本気でA評価を狙うタイプになった。さらには僕達全員が理数系の科目ばかりを選択していたため、課題の内容も難しい。小学生レベルの英語を教えるESLの先生が、化学式や計算式の混ざる論文の校正を毎回3人分頼まれ、根を上げてしまう気持ちは分かるが、課題を持ち込む度、次第に嫌な顔を見せ始め、ついには「他の学年で忙しい」と拒否する日も出てくる。

ESLの授業費を払っているのに、これでは仕事放棄だ。

ESLは英語以外に頼りにならないと感じた僕はこれに見切りをつけ、化学や物理の課題の校正は理系に強い家庭教師にお願いすることになった。投資が必要にはなるが、11年生という時期は始まってしまっていた。

成績を上げることに必死だった。

とにかくまずは50位辺り、最終的には成績上位30位に食い込まなければならない。

OP4を得て海洋生物学に向かうために、とにかく必死だった。

 

 

Chapter 5.4 - Fair or Unfair

秋深まる11年生の1学期は忙しい。

 

学年順位を持ち上げるため、勉強は毎日しっかりと行なう。

具体的に定めたのは、帰宅後の平日3時間勉強、という方針であった。学校が午後3時半に終わり、帰宅するのは4時になるが、そこでまずは1時間の休憩をとり、学校の疲れを取りつつ軽食を摂る。16歳の男子は毎日5食が必要なのは言うまでもない。

そして5時になるとそこから夜の8時までの『3時間』を勉強時間として予習復習を行い、8時に夕食、その後は課題等に追われていない限りは自由時間とした。

一方、週末は基本的に勉強時間を定めなかった。学校内でしっかりと授業を受け、帰宅後の3時間で復習しておけば授業には十分ついていけた。よって、週末に行なうのは追加の勉強時間が必要になった際。課題が出ていたり、何らかの原因で勉強が遅れた場合に取り戻すための時間だった。

合計すれば、学校を入れても週48時間の勉強時間だ。

残りの120時間は睡眠、食事、自由時間に当てられる。受験等の経験がなく豪州のゆとりある教育の中で暮らしてきた僕にとって、あまり無理のない勉強方法を確立することを勧めたのは母であった。よって、僕には意外と自由時間が多かった。勉強の合間合間には時間がないが、勉強後と週末、かたまった自由時間があるのだ。

そんな自由時間は、バイトや趣味に費やされた。

週末は10~20時間ほど寿司屋でバイトをして小遣いを稼ぎ続けたし、平日の夜は毎日水槽の掃除や熱帯魚の交配・育成に追われた。課題が多くなったりテストが近づくと、バイトのシフトを週1回に抑え、空いた週末の一日を勉強に割り振る。

勉強に追われる中の動物の世話は睡眠時間を削り行なった。

 

しかしバイトを週一ですら入れられない時期は来てしまう。

一学期末、学校では期末試験が行なわれる期間だ。普段は必ず週1日は働いていたが、膨大な勉強量を必要とする期末試験時にはさすがに自重しなければならない。

何しろ11年生の期末試験である。

高校生を終えるまでの2年間で、4回しか行なわれない期末試験の一つ。

11年生の期末試験は、来る12年生の期末試験までに受けることができる、2回だけの模試みたいなものだ。苦手科目が無くなり、変わりに一科目毎の範囲や内容が広く深くなったこの時期、校内順位が多少変動するであろうこの時期はとにかく大事だった。

 

期末試験への準備は4週間前から始めた。

3時間の勉強時間はいつも通りこなすことで並行する新しい勉強を学びつつ、自由時間をある程度犠牲にして、過去に学んだ内容を復習していく。ノートを読み返し、教科書の問題を解き、配られたプリントに再度挑戦した。

期末試験2週間前になると週一で入っていたバイトも一時的に休み、週末は朝から夜までみっちり勉強に費やされる。1週間前になれば、それぞれの科目の過去問を実際の試験環境で行った。

僕の学校では過去2年間分の期末試験の問題がネット上にアップされていて、生徒達はこれをダウンロードして勉強することができた。

11年生が大事な時期と分かっていた母は気転を効かし、去年のうちに知人に頼みこうした過去問をダウンロード、保存していてくれた。つまり、僕は本来では手に入らない、3年前の過去問も手にしていたのである。それぞれの科目で3年分、3枚ずつの期末試験を模試として解き、準備を進める。

 

試験が近づくにつれて、校内の緊張は高まっていく。

皆友好的な仲間達ではあったが、同時に誰もがライバルであった。陰湿ないじめや派閥争い等がないおおらかな学校ではあったが、学力戦争は確かに火蓋を切って落とされようとしていた。

 

一方、11年生になりその効力をほとんど失おうとしていたESLであったが、この期末試験の時期に絶大な効果を発揮することとなる。

未だ英語が不自由な留学生は、通例として試験30分につき5分の延長時間をもらえたのだ。期末試験は合計2時間であったので、これは20分の追加時間という意味になる。試験会場はESLの教室で、問題の英文に関する質問のみ出来るシステムがあったのだ。

英文に関する質問は、どうせ問題の内容が分からず曖昧な答えしか返ってこないであろうが、僕を含めたESL組はこの追加20分に飛びついた。

試験の時間は長ければ長いほど良いに決まっている。

問題の量が多ければ2時間で終わらないし、時間が余ればそれだけ見直しができる。

 

冗談であろうが、友人の一人がこんなことを言ってきた。

「留学生だからって試験で追加時間を貰えるなんてセコくない?」

僕は切り返す。

「ならば今度の物理の試験、日本語で出題するから日本語で答えてみなよ」
「2時間20分で日本語を読み日本語で答えるかい?それとも2時間で英語で答えるかい?」
「僕にとってはそういうことなんだ。20分はあまりに少ないんだよ」

立場を入れ換えた例え話をすると、皆が納得した。

 

いや、皆ではない。毎年あったであろうこの制度に一何故かESLの先生が異を唱えた。数学が得意な連中が、数学で他の生徒よりも多く時間を与えられるのが納得いかない、というものだ。

確かにESL組の僕達は全員がアジア人。英語にハンデを抱えつつも、数学が全員が得意科目であり皆がA評価を連出する面子ではある。

数学は見直しが大事な科目であるため、

「本来英文を読み理解するのに使われるべき20分を数学では見直しに使うだろう」
という意味で、ESLの先生が問いただしてきたのである。

これを考慮した学校側は、数学以外の科目で追加時間を与える、という方針を通達した。正直なところ、もらえる権利があるものが「得意だから」という理由で剥奪されるのはなんとも本国と彷彿とさせるような納得のいかなさがあったのだが、戦を前に、無駄なところで意地を張り敵を増やしたくはなかった。敵に回して今後添削等をさらに無視されては困るし、追加時間そのものを廃止されてはたまらない。

それに、先生の言い分にも一理あることは確かである。

僕はこの方針に納得し、そして11年生初の期末試験に挑む。

 

将来が見え始めるであろう第一歩へ向けて、挑む。

 

Chapter 5.5 - Time is Score

木葉が踊り小鳥の囀りが響き渡る校内で、期末試験は静々と始まる。

 

11年生からは本格的な期末試験だ。

すなわち、試験がある時間にのみ登校し、試験を受け、そして帰ることが許される。それまで平日は校内に幽閉されていた身である学生にとってこれは成長が故に手に入れた自由であり、同時に、普段とは違った時間に門をくぐった際の学校の、見知らぬ空気を初めて感じる時であった。

渋滞のない駐車場。

登下校中の生徒がいない校門。

別教室で授業を受ける下級生を見上げる空っぽのグラウンド。

何年も通い続けていたはずの道が、まるで別の場所に続いている道と錯覚してしまう。
静かで平和な、戦場へと誘う道のように。

 

普段は喧騒であるはずの踊り場を通り抜けると、そこは等間隔に離された机の並ぶ教室だった。これまた何の変哲もない、普段から使用している机であるはずなのに、試験仕様で等間隔に離されるだけで周囲を呑み込まんとする威圧感を放っている。

 

記念すべき一発目の試験は数C。

続々と教室前に集まってくる生徒達は皆、少々の笑顔を携えて互いに健闘を祈りあっていた。ノートを片手に最後の詰め込みを行なうものも、眠い眼を擦っているものもいない。数学において詰め込み暗記はほとんど意味がないし、睡眠不足は一番の大敵になる。数Cを選択するような連中はしっかりと試験の戦い方を承知していた。

携帯などの通信機の他、カバン等の所持品は全て剥がれ、教室に通される。目の前には運命を左右する問題が数枚と、学力を具現化する解答用紙が数枚。名前をしっかりと記入し、腕時計の時間を確認し、計算機の最終確認を行なう。期末試験であろうと計算機は必須だ。統計学的な内容も多いので暗算だけでは勉強が非効率的になる。

教室の時計の針が12を指し、まずは10分間の読解時間が始まった。

この最初の10分は試験問題を読むことはできるが、答案は何も記入してはいけない。
その後の120分で答案を行なうわけだが、この10分という時間をどれだけ有意義に使えるかは大事だ。

数学の期末試験は出題形式が2つに分かれており、計算問題と文章問題の2項目がある。計算問題は基本的な計算能力を問う出題形式であり、正しい値や法式を使って答えを導き出す。一方、文章問題では出題される文章を論理的に処理し、数学を使って状況に対処する。計算問題と違い、こちらは値や法式以外に、論理的思考能力や文章答案が大きく採点対象となる。よって、文章問題はしっかりと読解して論理的な流れを構築する時間が必要であり、僕を含めた全員が、読解時間をこうした文章問題に使った。

数学Cの問題は計算問題が16問と文章問題4問の、計20問。

たった20問ではあるが、文章問題を解くのには一問ごとに15分を費やす必要があった。本来は問17~20であるこれらを時間に追われる前に終わらせてしまったのは正解だったな、4問が終わって1時間が経つ中、そんなことを考えて脳を冷やしつつも間髪を入れず計算問題にかかる。

計算問題のほうは数学Cであってもスラスラと解けるものが多く、5分以下で1問解ける。なんとか試験終了3分前には全ての問題を終え、ざっと見直しができる程度の余裕だけだが、まずまずの出だしとなった。


2時間もの間ひたすら計算に脳を使い、ペンを走らせる手を止めないのは辛い。辛いが根を上げている暇もなく、帰宅し、控える残りの試験へと備える。

 

翌日には一日で、午前と午後の二回分の試験があった。午前中が英語、午後に化学の試験だ。

 

英語の試験は1学期で読んだ本に関するエッセイを600字で書くこと。

過去問の出題傾向から事前にESLで今年出題されるであろう問題が3つほど上がっていたので、3問それぞれのエッセイを事前に書いて予習をしておいた。試験なので勿論、予習で書いたエッセイの持ち込みや書き写しはできないが、それでも一度書いたことがある内容を綴ればいいだけなので、細かい文法のミスを除けばおおよそ同じ内容を書く事ができた。

英語の試験は記憶力だけの勝負であり思考力を必要とはしなかったので、午後の化学の試験も良好なコンディションのまま受けることができる、そんな安堵が僕の中にはあったが、これが2時間後にはこれまでにない不安となって返ってきた。

化学の試験がとにかく分厚く、そして想像以上に長かったのだ。

2時間にESL特例の20分を足した140分間、ひたすらペンを動かし続けたが、とうとう最後の2問は一文字も答える暇もなく時間切れとなり、白紙提出になってしまった。

 

時間が足りなかった。。。

20分も余計に貰っているのに、足りなかった・・・。

今までの試験とは明らかに違う。時間に余裕がない。

 

点数を落とした以上に、追加時間を貰っていたにもかかわらず間に合わなかった事実が精神的に堪える。

どうしてこうなった・・・なんでもっと序盤に早く書けなかった・・・。

慎重になりすぎたか?点数にこだわるあまり手が遅くなったか?


凹んでいる猶予すら与えてくれないのが期末試験のある一週間だった。

翌日にあった日本語の試験に関しては、前日はおろか当日も予習は一切行なわずに挑んだ。聞き取りはゆっくり喋る教材テープを眠らないように注意しながら聴くだけ、読み取りは内容こそ少しマニアックではあったが小学1~2年生でも簡単に読める単語や文字ばかり、書き取りはお題について、後に生まれるとは思いもしないアホなブログのように適当に書き殴るだけ、スピーキングに至っては授業内容と関係なく、クマヤマ先生に近況報告をしたら終わってしまった。

 

よって、この余分にできた勉強時間の全ては物理学の予習に注がれた。

化学の失敗を踏まえ、実際よりも短い1時間50分を目指して過去問を解く。読解と答案のスピードをとにかく上げ、同時に増えてしまう単純ミスを見直しで消す練習。ESL権限で貰える20分を足せば、見直しに合計30分使えることになる。

とにかくまず答案を埋め、その後に見直しで調整していく、そんな試験スタイルを重視した。

物理試験当日、読解時間中に試験をめくった僕は内心ほくそ笑んでいた。試験の中に2ヶ所、一字一句読んだことのある問題があったからだ。

無論それは過去問がそのまま出題されたからなのだが、そうであればクラス全員がほくそ笑む。周りの顔を覗いたらカンニング扱いになってしまうので自重こそすれ、全員がほくそ笑んでいないのは想像に容易かった。

過去問から出題されていたこの2問、共に3年前の試験で出題されたものであったからだ。そう、母の気転で手に入れた、本来であれば入手不可能であるはずの3年前の過去問。たった2問、配点もさほど多くはない2問ではあったが、気転がトリプルアクセルしていた。

2問の最良と思われる答えは手に染み付いていたので、これも影響し答案は加速、目標の試験開始1時間50分には無事に全ての答えを書き終えていた。見直しで細かい計算ミスも複数拾い集め、納得の行く形で試験会場を後にする。


残す試験期間は1日、科目は数学Bだけとなった。

正直なところ、最終日を目前に控えた僕はすでに意気消沈。精魂尽き果てていたので、予習もほどほどにこの最終試験を迎える。そうはいっても数学B、少しでも予習をしておけばすぐに感覚は取り戻せる。文章問題はややこしい問題も多かったが、計算問題は全問正解の自信があったし、数Cや化学や物理といった地獄の後であれば、数学ゆえにESL権限の20分を剥奪されようとも、見直しに費やすには十分な時間的猶予を残しての終了となった。

 

数学の試験の終わりを告げる鐘の音が鳴り。

それをかき消さんばかりの喜びのため息が校内にこだました。


試験期間最終日の午後3時。

 

各教室から続々と這い出る生徒たちの顔には、安堵や不安、希望や後悔が見てとれる。十人十色とはまさにこの状態の顔色を指しているのではなかろうか。

そして僕の顔は一体、今どんな色をしているのだろうか。

試験結果が発表となる1週間後には、どんな色をしているのだろうか。

 

 

 

Chapter 6へ続く>>

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僕と英語と、移住と学校。④

 

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Chapter 4 - Culture and Values

ワライカセミの嘲笑いが朝の寒さと共に、疲労しきった身体の骨の芯にこだました。

深い霧が不気味に未だ薄暗い森を覆い、ユーカリの木が亡霊のようにたたずむ。

テントから這い出ると朝露に濡れた靴を躊躇無く履きその亡霊へと歩み寄る。

チャックを下ろし、ぬかるんだ地面をさらに湿らす。快適である。

川のせせらぎは不気味な雰囲気の森にやすらかな音色を響かせ続けていた。

川岸を小さな影が横切り、すぐに対岸の闇へと姿をくらます。オポッサムだろうか。

刹那、突如東の山から太陽がこちらを覗き見、カーテンを開けたかのように霧は晴れる。

弧を描く小便は光を反射し、キラキラと輝く朝を演出した―――


――― 

 

QLD州の学校では、9月の頭に全国試験のようなものがある。

QCSテストと呼ばれるこれは12年生全員が受けなければならないものであり、このテストの成績は後に得るOP、個人成績に繋がる非常に大切な試験だ。この間は最終成績を目前にした12年生にとっては一番大事な、いわば受験期間。その大事な時期を目前に、学校は12年生がテストに集中しやすい環境づくりを心がける。

つまりは12年生以外の生徒を学校から排除するのである。

 

これは10年生である僕も例外ではなく、9月の初めは学校のキャンプに行く。修学旅行という名目で学生達を学校から追い払い、静かに試験を受けられる環境を作るのだ。

学校のキャンプ自体はさすがに慣れていた。

7年生の修学旅行は地獄の5日間ではあったが、8年生、9年生と毎年修学旅行には行く。ロッジに赴き、ロッククライミングやアーチェリー、オリエンテーションを楽しむ、そんな「キャンプ」は何度も経験してきたことである。

 

が、今回のそれは少し違っていた。

今までは学年全員がモーテルやロッジに泊まり、バスで送迎され出てきた飯を食い、決められた行事を楽しむ、そんな修学「旅行」であった。しかし、この学校での10年生のキャンプは本当の「キャンプ」なのだ。

いや、サバイバルと言い換えた方が良いであろうか。

その過酷さは過去に経験したことがある生徒達からの噂で、全校生徒はおろか保護者達にも有名である。

 

内容は至って簡単である。

出発地点からゴール地点までを、テントや食料、衣類、水を背負って山中を歩くのだ。生徒9人に対して、若くて体力のある教師が一人つく小隊で行動するこのキャンプは、何から何まで生徒が自分達で判断し、自分達でプランを練り、自分達で生き延びなければならない。ついてくる教師はあくまで監視と緊急時の対応を担うだけであり、学生達だけで地図とコンパスを頼りに、道が存在しない山の中を掻き分けて進む。ペース配分も野営地の場所も、水の確保場所も迂回ルートも、全ては学生達で話し合い決めていく。

修学旅行とは学校以外の場で学ぶ旅だが、オーストラリアのそれは勉学を重視しない。キャンプで学ぶものは教科書やインターネットには載っていないもの。チームワーク、サバイバル術、リーダーシップの取り方、臨機応変な対応術。それらを凝縮したイベントが、この10年生のサバイバルキャンプだった。

 

しかしそこは学校、無理強いはしない。

10年生のキャンプは宿泊数を選べる選択式なのだ。選べるコースは3種類。

一つ目はトラッキングコースを歩き最終到達地のコテージまで行き、そこで2泊3日暮らすだけのコース。
二つ目は最終目的地のロッジこそ同じだが、少し迂回して湖を目指すルートが追加されたキャンプ1泊とロッジ2泊のコース。
そして三つ目は道のない山を2つ越え、最終目的地のキャンプ場を目指すキャンプ4泊の過酷なコース。

 

体力に自信がない生徒、文明から離れた生活が苦手な生徒は皆が一つ目に集中する。このコースは平らな道を歩くだけであり冷蔵庫のあるコテージでステーキを食しシャワーを浴びられるからだ。進学校ということもあってか、このコースを選ぶ生徒は多い。

僕の周りにいた友達で、勉強ができる奴らも多くがこのコースを選んでいた。

だが僕は、チームに誘われても頑なに一つ目のコースに行くことを拒んだ。その根源にあるものは『ガリ勉』になりたくないという気持ちだろうか。

否、単純にこのキャンプが非常に楽しみだっただけであろう。

選んだのは4泊5日、一番過酷な名物サバイバルコースである。物心がついた頃からキャンプに慣れ親しみ、小学2年生の頃に「特技を挙げろ」と言われれば火起こしと答えていた僕にしてみれば、この4泊5日のコースはむしろ憧れの旅に聞こえる。

仲間は理科で一緒のクラスメイト達で構成された。

屈強なオージーの男子が4人、女子が3人、そして僕と何故かジョッシュがついてきた。他のグループを見ても4泊5日コースにアジア人はことごとくいない。ちょくちょくと紛れているアジア人はどれもが豪州で生まれ育ったやつばかりだった。

 

キャンプ始まる2週間前、担当の男性体育教師とチームでブリーフィングが開かれた。
持ち物の確認や野営器具の割り当て、チームリーダーの割り当て、最低限のルールなどの確認。

「もしも誰かが足を滑らせて骨を折ったら無線で救急ヘリを呼ぶから安心しろ」

教師の放ったその台詞を、僕は日本人ではなくオージーの感覚で聞いていた。


キャンプに備えてバックパックを新調した。

容量120Lの、大人向けの本格的なトレッキング・バックパックである。フィリピンやアフリカ、西オーストラリアを旅していた頃はまだ小学生だった。バックパックを背負っていたのは母であり、僕自身は非力で何も持てなかった時代である。だが、いまならこのバックパックを背負って一人で立てるのだ。その巨大なバックパックを手に、成長によって得た力と自由が嬉しかった。

 

 

一日目の最初の1時間はどうということはなかった。

慎重に詰めたバックパックの重さは20kg近くになっていたが、それでも平たく固められた道路を歩くのには問題がない。しかし車が通れるこの道は唐突に別れを告げ、目の前にはいきなり山が聳え立つ。

オーストラリアには珍しい、水が豊かな山に生える木々はうっそうと生い茂り、日中にも関わらず薄暗い獣道を覗かせていた。

一歩山へと踏み込み、本格的な山歩きが開始となるその時。

両足には絶望的な重みが圧し掛かってきた。

傾斜は大したことがないし、1時間前の疲労も溜まっていない。だが、背中のバックパックに詰めた5日分の命の質量は重力と共に、容赦なく地球の脅威を具現化する。20kgを平らな道路で背負うのと、足場の悪い山道の傾斜で背負うのではわけが違っていた。

初日の冒頭から体験する、命の重み。

その重みは命の尊さではなく、物理的な重みだった。

普段は蛇口を捻るだけで出てくる水が、このバックパックには6L入っている。一日に最低2Lの水を消費する人間にとっては命の次に大切な水の重さは、コップに注いで飲むときには考えられない重さだった。

水は人に希望と絶望をもたらす。

 

楽しいとか空気が美味しいとか、そんな生易しい感覚は暗い笑みを浮かべる森の前に投げ捨てざるを得ない。頼れるのは自身の体力と気合いだけ。次の一歩を踏み出すことだけに集中して、気合いで身体を前に押し出す。

一歩踏み出し、体重を預け、一歩を踏み出し、体重を預け・・・

単純なプロセスでも脳で反芻しながら行なわなければ、身体のほうが勝手に止まりそうだ。頭上では僕達を嘲笑う鳥たちの声がグルグルと周っていた。

 

倒木を見つけたところでチームリーダーが休憩の指示を出す。

皆が一斉に倒れこみ、減り続けていた口数が再度増え始めると鳥達は嘲笑うことをやめた。バックパックを下ろすと、まるで足がもう一本生えたかのような感覚に陥る。身体が軽い、足が強い。

その感覚も倒木に腰をかければ霧のように消え、疲労感が身体と心に襲い掛かった。バックパックから水筒を取り出し、喉の渇きを潤す。

友人のショーンが差し出したチョコレートを口に含むと疲労感が消し飛んだ。その糖が腸に達し吸収され始めれば、またバックパックを背負い今日の野営地を目指す。

 

地図上で定めた野営地は三千里先にあるように感じられた。

時速2kmの期待値で割り出していた場所を目指し続けるも、気づけば西の空に太陽が帰り始めていた。皆疲れきっていたが、休憩を挟んでいる暇はない。辺り一面、文明が皆無なこの場所での日没は、黒よりも深い暗闇の訪れを意味しているからだ。

澄んだ空は真っ赤に燃え上がり、やがて炭化が始まるかのように静々と黒色の割合が増していく。

木々が生い茂る山の中では風前の灯である夕空の光も十分に届かず、焦点が合わなくなり始めた。夕方を越えて夜の始まりに差し掛かった頃、ようやく野営地に到着して急いでテントを設営する。

懐中電灯の光さえ飲み込む暗闇の中ではろくに設営場所の確認もできない。

皆が疲れきりそして腹を空かせていたので、寝床の確保は適当に行なわれた。

 

テントを設営すれば、次は食事である。

無論、ここでも蛇口も無ければコンロもないし、洗い物をする水もない。食料の軽量化を測るため、主食は即席麺やドライライスなど、お湯で作れるものばかりだ。

お湯を使用する料理に、バックパックに詰まっている安全な水を使うのがおしい。近くに川があると地図は示しているので、ショーンと共に懐中電灯を片手に水を確保しに行く。

しばらく歩くと闇に隠れた水場に気づかず片足を踏み込んでしまった。太陽光を浴びない泥水の冷気が、右足のかかとから小指の先まで容赦なく包み込んだ。

初日にして靴をやられた。替えの靴はもう一足しかない。

靴は残念だったが、それでも水場を見つけられたのは大きい。水深は浅かったが上澄みの水を鍋に汲み、野営地へと引き返した。

汲んできた水を沸かし、即席麺を放り込む。野菜も肉も存在しない森の中で、それでもしかし即席麺がはらわたに染み渡る。

と、懐中電灯で食していた鍋の中を照らすと、入れていないはずの具材がそこには入っていた。1cmほどの細長くて黒っぽいもの。指で摘まみあげてよく観察してみると、それは沸騰したお湯で死に絶えたボウフラの死骸ではないか。

どうやら水場には大量のボウフラが泳いでいたらしい。鍋には20を越える「具材」があった。ボウフらぁ麺だなと脳内で笑いつつ、貴重なタンパク源として食してしまう。必死に背負っていた食料、靴を犠牲にして汲んできた水。作り直すだとか捨てるだとか、そんな感覚は微塵も感じられない。

 

時間は夜の9時ぐらいだろうか。

普段ならまだ覚醒しているであろう時間帯でも、上下左右が解らず酔いそうになってしまう闇に囲まれた世界ではどうしようもない。6人テントに潜り込み、真ん中に寝袋を広げる。マットはかさ張るので持ってきていない。

テントを設営した場所には大量の石が埋まっていたらしく寝床は猛反発ベッド状態であったが、それでも疲労しきった身体を休めるのには1分とかからなかった。

 


―――

 


朝日を帯びた小便から始まった2日目の朝、まず目にしたのは水場だった。

昨日の夜にボウフラを汲んできた水場は川ではなく、川の隣りにできた水溜りだったのだ。暗闇で視界が利かなかったが、隣りに流れる川の音で気づかなかったらしい。

水溜りを泳ぐボウフラ達は別れを告げるかのようにその身体をピクピクと振るっていた。

 

昨日の教訓を活かして、二日目は早めの出発になった。

テントを畳んでいる時からすでに身体中の筋肉が悲鳴を上げていたが、それでも朝日を拝むと自然とやる気が出てくる。

テントなどは部品ごとに男子が運び女子は免除になっているが、これが地味に重たい。しかしテントもまた生き残るためには必須の道具、背に腹は変えられないのだ。

身体の疲労は抜け切っていなかったが、それでも身体はなんとかついてきた。缶詰の昼飯を食し、チョコレートで糖分を確保しながら黙々と歩き続ける。昨日のペースから野営地の再設置をした今日の総距離は、このキャンプで一番短い。

朝の7時に出発した僕達は、途中で休憩を挟みつつも午後の3時には目的地に到着してしまった。本来ならばまだ距離を稼げる時間だが、本日のチームリーダーはここでの野営を決定した。川の支流に面しているこの場所は、飲み水の確保ができる最後の場所だったからである。この先にはもう川がなくなり山ばかりになるので、明日の朝に持てるだけの水を確保したい。

早々にテントを設営してしまい、時間が余ったので男子も女子も教師も皆が川に飛び込んだ。水温は20度を下回っているであろうその清流は、歩き疲れて火照った身体を一瞬で冷却する。

倒木に立ちお互いを川に落とし合う16歳達の姿を、高いユーカリからつがいのキバタンが興味深く眺めていた。

 


この水の確保判断は必要がないものなってしまう。

三日目の朝は太陽を反射する小便では始まってくれなかった。

シトシトとまるで止みそうにない冷たい雨音がテントを叩く音で目覚める朝は憂鬱だ。

キャンプにおいての一番の敵が雨である。真水の確保が難しい場合の雨はありがたいものがあるが、山歩きをする場合にはデメリットが大きすぎる。防水ジャケットを着こんで茂みに入り小便をしていると、テントの両端で寝ていた二人の悲痛な叫びが雨音とまざり哀愁を増しながらこだましてくる。

どうやら寝袋がテントに接していたため、雨水が染み込み濡れてしまったらしい。そう、テントの端は一見すると、誰に蹴られることもなく頭上を人が横断しない最高の寝床。しかし僕はあえてテントの真ん中、一番人の出入りが多くうるさい、隣りの奴らが寝返りで殴りかかってくるこのスペースを率先して選んだ。理由は雨に対する警戒だったのだ。

テント端に触れるなと忠告はしておいたにも関わらず、やはりこうなったか。乾いた寝具が無くなる厳しさは熟知していた。

 

雨天でも歩みを止めるわけにはいかない。

最終目的地には明日までに到着する必要があり、昨日は距離を抑えたので三日目はこのキャンプの中でも一番歩く必要があるのだ。空いたペットボトルにいっぱいの水を川から汲み、荷物に詰め込む。消費した水の量だけ軽くなっていたバックパックは、またしても絶望的な重さを取り戻した。

滑る足元に細心の注意を払いながら山道を歩くのは、体力も神経も消耗して非常に疲れる。乾いた靴を温存するために初日で水に浸かった靴を履いているのも滑りやすい原因の一つだった。

と、いきなり前を歩いていた女子が転倒し、巻き添えを食らった。水を吸うと非常に重くなるジーンズだが、転倒時にはただただ心強く、転んだところで怪我はなかった。山中では切り傷一つでも感染症を起こせば重症に成り得るので油断はできない。

 

この日のルートは長いだけではなく、過酷な道のりだった。

手を差し伸べあって崖を越え、ロープをかけて傾斜30度の濡れた岩場を登る。チームリーダーが地図で確認する限り、この方法を取らないと迂回するだけで半日かかるらしい。誰も文句を言うこともなく、リーダーの言うことを信頼して励ましあいながら難関を乗り越えていく。

足だけではなく腕力までもが削られる過酷な道のりだったが、それでも身体は普段よりも軽く感じられる。食料がある程度減っているのも理由の一つだが、一番大きなファクターは自身の身体が旅に順応したことであろうか。

距離があったので目的の野営地への到着はまたしても日暮れ近くになってしまったが、3日目になるとテントの設営や食事準備の効率も上がっており初日とは比べ物にならないほど充実した夜を過ごせた。

成長は個人だけではなく、チーム全体に起きている。

 

 

四日目も小雨が降りしきる朝を迎えたが、気分は軽くなってくる。

この日の目的地は最終目的地でもあるキャンプ場だ。今日を歩ききれば、ノルマ達成ということになる。夜の間に外に出しておいた鍋内の雨水で歯を磨き、ついでに朝のコーヒーを作り気合いを入れなおす。

テントを畳み、山道をしばらく歩くと別のグループ達に遭遇した。久しぶりに見るチーム以外の人、所持品以外の人工物。友人達との再会は懐かしい雰囲気ではあるが、同時に共に暮らしてきた自然との別れを意味するようで寂しい気持ちにもなる。

 

寂しさなどは人の身勝手で吹き飛んでしまうものだ。

目的地のキャンプサイトは一面が芝生で覆われていた。平たい場所にテントが張れる、石のない地で横になれる。さらにバーベキューコンロから水洗トイレ、水道まで完備されているではないか。文明の利器のありがたみは今までも幾度と無く感じ取ってきたが、この感覚に慣れはこない。

 

しかし文明の利器はときに人を変えてしまう。

キャンプサイトには簡潔なシャワールームもついていたのだ。コイン式を投入するとお湯が出るらしく、4日間もの間ずっと汗と泥にまみれてきた子供達が硬貨をめぐって騒ぎ始めたのである。

そんな彼らを尻目に僕は一人、テントに潜りバックパックから着替えを取り出した。雨が降っていたため今まで温存しておいた、洗剤の香りがする乾いた下着にシャツとズボンだ。雨に濡れ泥で汚れた服を脱ぎ捨て、綺麗な服に着替えればもう満足。

 

乾いた服でくつろいでいると、チームメイトであり友人のショーンが入ってきた。

「何してんだ?みんなシャワーを浴びようと必死だぜ!」

ショーンは少し皮肉を混ぜた陽気な口調で訊ねてくる。オージーの中でも特にオージーの性格が出ている彼は、雨に降られ泥にまみれてもポジティブでいられるのだ。

シャワーなどという予想もしていなかった幸せを血眼になって追いかけることに興味はない。たとえ小さくとも、手元にある幸せを堪能するほうが懸命なことだってあるはずだ。

「乾いた服と平たい地面があれば幸せだからなぁ」

そう呟くと、ショーンはガハハと周り中に響き渡る声で笑い出し、拳を突き出してきた。

「お前のそういうところ好きだわ!」

「うっせーお前だってシャワーも浴びずに笑ってられるくせによ!」

突き出された拳に拳をぶつける。

 

ショーンとの絆が深まったと共に、オージーに近づけた気がした。

芽生え始めていたポジティブ思考が完全に根付いた瞬間だった。

 

 

Chapter 5へ続く>>

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僕と英語と、移住と学校。③

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Chapter 3.1 - The Starting Line

最初に感じていた感情は「混乱」だった。

 

夏休みの2ヶ月を全て英語力の強化に費やした僕が気づく頃には、始業式が一週間後に迫っていた。こんなに机に向かい続けた夏休みは初めてだ。去年は長すぎるとも感じられた2ヶ月も、今年は一朝一夕に感じられる。

あと一週間で学校が始まる。

一週間後はただの始業式ではない。

転校生として、新しい学校に通い始める日でもあるのだ。

 

それなのに僕は面白い程に、全くもって不安を感じていなかった。


新しい校舎、新しい土地。

知ってる顔も、仲の良い友達もいない学校への転校。

前に転校したときの気持ちはハッキリと胸に残っている。

転校の一週間前から考え、考え、思い詰め、思い詰め、そして自分自身を追い込んだ。「転校」記憶から抹消したいような、辛い思い出しか僕にはない。


でも今回の「転校」はなぜだろう、辛くもなければ怖くもないのだ。別に転校が待ち遠しいわけではないけれど、逃げ出したくなる事態でもない。

なんだ、なんなんだこの心情の変化は。


―――

だって、もう怖くないじゃないか。
7年生の時は英語も喋れなかった。知らない国に越して来たばかりだった。知人は一人もいなかったし、勉強も常識も理解していない状態での転校だった。

それでも生き残れたじゃないか。

何事もなく初日を終えられたし、すぐに学校にも慣れたじゃないか。あの日に比べれば、来週の転校なんて可愛いもんさ。

―――


ああ、そういうことか。

僕は、もっと大きな「転校」の壁を乗り越えた経験があるんだ。来週の転校があの日の壁よりも高いなんてありえないから、別に不安を感じないのか。

 

 

9年生、初日。

新しい学校とは言っても、通学ルートは去年とほとんど変わらない。すでに2年間近く走ってきたその通学路の景色には、不安どころか安心感すら覚える。

学校には8時20分頃に到着した。始業式まであと10分はあるだろうか。さぁ、まずは事務室に顔を出せば教師達が指示を出してくれるだろう。大きな校章が掲げられた学校のメインオフィスはすぐに分かった。

名前を名乗るとすぐに転校生の管理者が現れ、時間割と記帳を僕に手渡してくれた。先生に連れられて、その足でまずは始業式が行なわれる講堂へと向かう。この講堂には来たことがあった。8年生のときに、チェスの大会でメダルを2つ受賞したのがこの講堂だったっけ。

 

講堂は5つのエリアに分かれていた。

この学校では全校生徒を5つのグループに分けていて、運動会や水泳大会はこのグループ対抗で行なわれる。僕が配属されたのは青色を基調としたグループで、グループ担当の先生は若い男性教師だった。笑顔の耐えないこの先生は、生物学の教師らしい。

先生に軽く自己紹介して、勧められた席に座る。周りには数人の生徒が興味の目で僕を見ていた。なんてことはない、この視線も経験してきたし対処法も知っている。

いや、対処法ではないな。

ここが友達作りの第一歩、僕にとってはこの先の学校生活がかかった大事な一線、と言えるかも知れない。それでも僕には不安や緊張がなかった。

 

「やぁ。今年から9年生に転入してきた。よろしくな」

軽く明るく、それでもしっかりとした英語で僕が挨拶をした相手は、二人の金髪の白人男子生徒だった。

「初めまして、僕はハーリー」

「俺はカラム、俺たちも9年生だぜ!よろしく」

二人から返ってきたその言葉に、内心とても嬉しかった。そうだ、今の僕ならちゃんと自己紹介ができるんだ。今の僕なら相手の返事も理解できるんだ。


これまでの2年間は、この理想的なスタートを切るためだったのだろうかね。

 

始業式の後は、面倒見の良いハーリーに色々と世話をしてもらった。

時間割を解読してもらい、誰について行けばいいかを教えてくれた。同じく9年生の生徒達に、僕を紹介してまわってくれた。ロッカーまで案内してくれて、ダイアル式の鍵の使い方も教わった。複数ある教室棟を全て一緒に回り、時間割と照合して何所に向かえばいいのかを教えてくれた。

学校を一周し終わった頃にはもう授業も開始寸前で周りに生徒が見当たらなくなっていた。20分ぐらいだろうか、ハーリーは友達と遊ぶことも呆けることもなく、献身的に僕を助けてくれる。誰に命じられたわけでもないのに、教室に遅れて咎められるリスクを背負い、丁寧すぎるほどに助けてくれる。

これがオージーの内面から出る、真の優しさだ。

 

感謝の言葉を述べ、クラスの違うハーリーと別れた。

教室の前に立つ。やはり不安はない。

英語を強化し、前の学校の総合成績で表彰もされたんだ。もう僕に死角はない。

 

目の前のドアをくぐれば初日の最初の授業、理科のクラスが待ち構えている。

 

 

Chapter 3.2 - Back to the Bottom

教室にはおよそ20人程度の生徒がすでに座っていて、皆が理科の教科書を広げていた。

知っている教室の雰囲気とは違った、別世界のように感じられる。誰一人として席を立っていなければ、大声で喚いてもいない。皆が背筋を伸ばして、教科書を広げて小声で話していた。

前の学校ではこうは行かなかった。これが進学校ってやつなのか。

初っ端から学校の空気の違いが、ジャブ、ジャブと牽制を仕掛けてきた。

しかし僕にとっては好都合だ。

馬鹿みたいに騒ぐオージーは愉快だから好きだが、場所と状況をわきまえてくれないアホはさすがに迷惑。成績を取って海洋生物学に進むには、少し張り詰めた空気こそ心地良い。そんな気持ちが軽く右フックで応戦し、まずは教室に足を踏み入れることに成功する。

知らない奴らばかりの教室だが、もう怖気づくことはない。

適当に空いている席に座り、隣りに座っていた生徒と軽く自己紹介を交わす。

ロシア人の血が入っているセルゲイ、双子の兄であるトム、ラグビーが大好きなショーン。理科室の4人掛けのテーブルにすんなりと溶け込むことが出来たのは7、8年生の頃に学んだ教訓の成果か。

 

帳簿を忘れて教室を離れていた理科教師はすぐに戻ってきた。初日なのでクラス全員を点呼したあと、すぐに授業が開始された。

理科は前の学校で表彰されるまで成績を押し上げてくれた、いわば得意科目だ。進学校の奴らがどれほどの実力か見極めてやろう、そんな強気で臨んだ初日の一時限目。

 


3分もしないうちにノックアウトされた。

 


先生の口から飛び出す単語の一つ一つが重たいストレートやアッパーのように僕の脳を揺さぶった。

必死に先生の話している内容を把握しようと教科書をめくるが、そやはり知らない理論のオンパレードだ。どうやらこの理科の授業、この学校では8年生から10年生まで内容が繋がっているらしい。つまり、クラスメイト達は去年に理科の基礎を学んでいるから、今話している理論も理解できるのだろう。

その基礎知識が僕にはなかった。前の学校ではこんな内容は習っていないし、第一あの学校では数学の授業以外で教科書を使っていない。


進学校、という響きから覚悟はしていたが、初っ端の、それも得意科目である理科の授業、ここから躓くのは想定の範囲を大幅に超えていた。

夏休みに英語を強化したところで、伏兵はどこにでも潜んでいたようだ。

先が思いやられたが、それでももう心は折れない。これよりも数億倍ほど強く打たれた経験から得たその支えは、生半可なショックでは潰せない。


同じクラスの面子で、次に社会の授業に出た。社会科の授業といっても選択科目がまだ無い9年生では、歴史や地理が混ざっている授業だ。

元々こういった科目が苦手な僕である。得意な理科でもあの不意打ちを食らった身として、戦う前から結果は見えていたようなものだった。案の定、こちらも内容を全く把握できない。

 

しかし、初日から力んでも始まらない。9年生から転入してきた僕が授業についていけないのは自然の摂理だ、ある程度は仕方が無いだろう。そう割り切って、まずはとにかく友人関係を固めることと新環境に慣れることに専念した。

 

朝休みが終わると、次の4~5時限目は選択科目1、そう時間割には記載されていた。

選択科目1は日本語の授業である。

そう、オーストラリアの学校では外国語の選択科目として日本語を教えている場所も多い。日本で英語を教えるように、豪州では日本語を第二言語として学校で学ぶことができるのだ。日本人である僕が日本語の授業を選択するのは勿論勉強のためではない。平仮名の書き方を教えているようなクラスだ、学ぶためではなく成績のためであるのは一目瞭然だろう。

 

日本語のクラスには僕のほかに、同級生の日本人が3人いた。オーストラリア生まれで英語のほうが得意なカイト、学校でもトップクラスの成績を取るユーイチ、活発なアリサ。全員が英語に関して何一つ不自由がない、完全なバイリンガルだった。

 

ここでも前の学校との差が見受けられた。

 

同じ日本人の学生でも、立っている土俵が違うのだ。

センパイやシホは、一緒にESLに入っていたし数学の教室でトップを争う程度に収まっていた。しかし、このクラスにいる日本人達は一線を越えている。進学校でトップの成績を収めるユーイチ、早口で流暢な英語を操るアリサ、ラグビーでオージーを跳ね飛ばすカイト。

それに比べて僕はどうだろうか。

英語も不自由、スポーツも体力馬鹿のオージー相手には敵わず、成績もこの学校では通用しないだろう。

理科、社会と続いて、日本語の授業でさえも僕は小さい存在に感じられた。

 

選択科目2はITの授業をとっていた。

当時PCをいじり始めていた僕としてはもっとITの知識をつけるのも良いのではないか、そんな軽い気持ちでの選択だったが、この授業でも初日はやはり苦労することになる。

当時の日本人の子供にしてはパワーポイントやワード、エクセルなどは扱えるほうだっただろう。が、やはりここでも「日本人」という考え方や「IT=ワード、エクセル、パワーポイント」などの考え方が仇となる。

授業の内容はコンピューターセキュリティについてだった。フィッシング、ファイアウォールスタンドアローン、知らない単語のオンパレードである。また、授業は一人が一台のコンピューターを使い、スクリーン上に映る教師のPC画面と説明を聞きながら進行するが、これが難しい。

ただでさえコンピューターの知識がクラス内では圧倒的に乏しい上、聞きなれない単語が多く混ざる英語は理解し難いのに加え、板書が無くスクリーンに映し出される教師のPC操作は早過ぎてついていけない。どの授業よりも、ITの授業は一番難しく感じられた。

 

選択科目3、これは僕の英語力からしESLを強制的に選択させられる。

ESLのクラスには僕を含めて3人の生徒がいた。タイからの留学生であるロックと、台湾からの留学生であるチェン。二人とも、何故ESLにいるのかが解らないほどに流暢な英語を話し、そして書いた。彼等の英語力を十段階中の九とするならば、僕の英語力は一に達するのがやっとだろう。

 

留学が始まって3年目だった。

夏休みを全て返上して英語の勉強に努めた後だった。

ESLの授業に顔を出して、ようやく一つの事実に気づいた。

 

 

前の学校で表彰された僕もこの学校では、現在最下位を独走中なのか。

 

 

打って変わって英語の授業は、またしても理科や社会と同じクラスの面子と一緒に受けたが、英語力に関しては圧倒的最下位である僕を、それでも英語の先生は全く手を抜かずに接してきた。クラスで習う授業は同時進行だし、小テストも皆と混ざって同じものを受ける。

 

この学校の空気は前の学校とは根本的に違う。

 

生徒を気遣わないわけではないが、生徒一人のために授業を動かすわけでもない。

留学生だから、英語が不自由だから、日本人だから。そんな「甘え」は通用しない。生徒が頑張って自分の力を出し切るか、途中で諦めて堕落していくか。

学校側は生徒が頑張る機会を与えてくれるが、勝手に落ちていく生徒のために命綱は用意してくれない。

 

そんな空気に包まれた新しい学校は、初日はほぼ全ての授業で散々な結果に終わった。

想像以上にレベルの高かったこの学校でも、ただ一つだけ「散々な結果」に終わらなかった科目がある。

 

そう、数学である。

 

僕の最後の砦にして、絶対の守り。

数学だけは負けない。負けてはならない。

この科目だけは、いつでもどこでも僕を支え続けてきてくれたのだ。

 

数学のクラスは4つの普通教室と、1つの上級クラスに別れていた。

成績優秀者は上級教室に集められ、残りの生徒は授業においていかれないように普通教室で少し授業ペースの遅くして数学を学ぶ。僕は成績の解らない転校生ということで普通教室に入れられたが、進学校というだけあって普通教室の数学の平均レベルも前の学校に比べると相当に高いものだった。

しかし、これだけは負けない。

数字は裏切らなかった。

大丈夫、この程度なら余裕でクラストップが取れるだろう。

 

初日の学校は数学の安定感と、残りの科目での劣等感を見出して終了した。

奇しくも、7年生の頃に感じていた授業に対する見解と同様の初日を終えたのだ。

 

 

Chapter 3.3 - Focus on your Strength

初日に圧倒的な学力差を見せ付けられた僕は、正直、少し怯んでいた。

果たしてこの学校で置いて行かれないであろうか。英語力だけでも最下位なのに、総合的な勉強でも遅れているであろう自分に道はあるのだろうか。

しかし悩んでばかりいても時間を無駄にするだけなのは、マイナス思考であった僕自身がよく知っている。

まずは行動だ。

とにかくやってみて、その後に活路を見出せばいいだろう。

 

真っ先に始めたのは教科書の翻訳だった。クラスの皆が8年生の時点で終わらせたであろう理科や社会、その基礎部分が記されているページを、電子辞書を片手に母と読み明かした。辞書で引いた単語は日本語訳を教科書に書き込み、読み返す際に苦労しないよう工夫した。

移住から2年が経過したとは言え、それはたった2年に過ぎない。

小学校時代の理科や社会の知識をフルに動員して教科書を読み進めるには、日本語の知識を使うために翻訳が欠かせなかった。専門的な単語が多く飛び出す理科と社会の教科書は、瞬く間に書き込んだ日本語で黒く塗りつぶされた。書き込みで埋め尽くされた教科書は恥ずかしいが、背に腹は変えられない。

 

教科書を読み明かし、遅れを取り戻そうと必死にもがいている間も学校の授業は早いペースで進んでいく。気づけば3月も終盤、秋休みも目前となったそんな時期には様々な科目でテストが行なわれる。英語やITは課題が出るのでテストはなかったが、それでも数学、理科、社会、日本語の4科目が続々と僕の疲れ果てた脳に追い討ちをかけてきた。

1週間後、それらのテストが採点され生徒達に返ってくる。

 

真っ先に返ってきたのは理科のテストだった。

前の学校であればそこには赤字で大きくA評価が輝いていたであろうその科目も、教科書の翻訳で付け焼刃の如く固めた基礎知識だけでは点数も芳しくない。

B評価。

理数系が得意と言うにはパッとしないこの点数だが、それでも僕に焦りはなかった。英語が学年一苦手というその身分が、テストの点数の低さをストレスと感じさせなかったのだ。英語ができない身分でテストの点数が芳しくないのは至極当然であろう。そんな『甘え』にも似た考え方をしていた。

 

『甘え』はすぐに払拭される。

 

日本語の授業でもテストの結果が返ってきた。

小学1年生レベルの日本語を教えているクラスだ、このテストは間違いようがない。余裕の表情で返されたテストを見れば、やはりそこにはA+が輝いていた。

そこで気づく。

返ってきたテスト用紙に並ぶ正解のマークの中、一箇所だけ赤ペンで訂正されている場所があったのだ。読み上げられる短文を聞き取り、内容を答える問題だった。

「日本の 天気は どうですか?」

そんな簡単な日本語が読まれ、これを英文で記入する。訂正の赤字が、この英文に記されていた。『天気』のスペルを、Whetherと書いてしまっていたのだ。

 

たった一つの不正解なので、総合的な点数ではA+であった。

だが、だがしかし、絶対に答えられるべき日本語のテストで、100%を取れなかったのは事実だ。たとえ日本語のテストであっても、問題を英文で読み、回答を英文で答えるのが学校である。英語ができない学生は、例えその科目で超越した能力を持っていようとも学力は認められない。

 

英語ができない身分でテストの点数が芳しくないのは至極当然であろう―――

 

この「甘え」が許されるのは短期留学生までだと気づかされた。そう、現地校で現地人相手に成績争いをする身分である長期留学生にとって、「英語ができないから」と開き直ることは尻尾を巻いて逃げ出すことと同じことなのである。

 

一方で、数学のテストは思い通りの結果が出せた。

前の学校と同様、クラス内でトップの成績を収めたA+。

週2日で日本の高校数学の参考書で勉強を続けている僕にとって、9年生の数学は進学校であっても簡単なことに変わりはない。

しかし、このテストでも1点だけ落として満点を逃してしまっていた。文章問題のニュアンスを正しく理解しなかったがために答えが少しずれ、半分点しか得られなかったのだ。やはりここでも英語でつまずく。

しかし、あと1点で満点という圧倒的な成績を見込まれ、数学はその日のうちに特進クラスへと編入させられた。特進クラスには今回のテストで満点を取った生徒が十数人いたらしい。

クラスが違えば数学でもその成績は霞むのか。

 

 

社会科のテストは昼休みの前に返された。

元々苦手科目である社会科のテストだ、悪い点数は覚悟していた。が、返された紙切れは想定以上のショックをもたらす。赤ペンで記載されたその評価は、思いもしなかったD+。

人生で初めての落第点。

 

さすがに落胆した。

これでも教科書を翻訳し、宿題は一度もサボらず、授業もしっかりと聞いて勉強してきたつもりだった。

それでも、落第点だった。


テスト結果と答案の説明が済むとすぐに昼休みだった。社会科の担任は昼休みを待ち望む生徒達を、成績の順番に教室から解放する。まず、A評価を取った生徒達を送り出し、次にB評価の生徒達を激励し送り出す。C評価の生徒達にはもっと頑張って勉強するようにと話し、そして教室から出る許可を出した。

昼休みが始まってすでに5分が経過している中。

教室には担任の先生と、クラスで唯一、C評価でも解放されなかった僕が残った。

担任にしてみれば、成績優秀者には優越感を、他の生徒には向上意欲を持たせようとしたのだろう。

それは解る。

解っていたが、惨めだった。

教室に一人だけ残ってしまったそんな僕に、もう70歳近い先生は語りかける。

 

「いいかい、社会科の勉強が苦手だから、社会科の成績が取れないから、だからどうした?君はちゃんと勉強しているし宿題だってやっているのを私はちゃんと知っている。
それに、君は数学の成績はトップレベルだったそうじゃないか。理科の勉強も好きだろう?

ならばそれでいいんだ。

人間、全てが得意な人なんていないんだ。

誰にだって得意なものがあれば、不得意なものだってある。それが当たり前だし、その得意なことをどれだけ活かせるのか、これが大事なんだ。数学や理科の勉強が得意で、かわりに社会科の勉強が苦手ならそれでいいんだ。

むしろ、私はどんな勉強でも同じような成績を取れる生徒より、そっちのほうが素晴らしいと思っている。得意な事のかわりに不得意な事を伸ばそうとするのは、今は考えなくていいんだ。

全てにおいて平均になる必要なんかないからね、それでは面白みのないただの人形みたいだ。まだ子供なのだから、得意なこと、興味のあること、やりたいことだけに集中すればいい。」

 

先生の長い話を聞いていたら、昼休みは開始から15分が経過してしまっていた。

だが、昼休みを全て返上しても構わないと思えるような言葉を聞いた、そんな気がしてた。これがオーストラリアの教育方針なのだろうか、日本のそれとは真逆だった。

 

先生の語ったその言葉には、45年間子供達を教えてきた先生の信念が詰まっていた。

 

 

Chapter 3.4 - Don't be a sook

浮き彫りとなった自分自身を正当化しようとする「甘え」。
―――英語が学年で一番できない、そんな立ち位置なのだから点数が取れないのは仕方がない。

人生で初めて経験した社会科での落第点。
―――誰にだって得意なものがあれば、不得意なものだってある。それが当たり前だし、その得意なことをどれだけ活かせるのか、これが大事なんだ。

 

テスト期間に僕が気づかされたこの2つは、一見すると似ているが大きな違いがあった。前者は個人単位の言い訳に過ぎないが、後者は種類こそあれ、誰にだって当てはまる法則。

ならば直さなければならない。

英語ができなくて点数が取れないなら、もっと必死に英語を学ぶほかに解決の道はないだろう。言い訳をしていても一文の得にもならない。迷ったら、悩んだら、とりあえず行動を起こしてみないとどうしようもないのだ。

 

だから英語を強化した。

とにかく英語ができなければ、勉強が出来ても成績が取れない。

英語ができないと、問題に答えられるのに答えられなくなる。

 

ESLの教室に通い続ける日々が始まった。

ESLの授業自体は低学年向けの教材を使った文法や単語などの基礎的な勉強をするが、
僕はESLの授業が無い日でも、朝休みや昼休み、放課後を使って通い詰めた。通い詰めて教わったのは文章の構成や表現。つまり、エッセイやレポートの書き方をとにかく重点的に教わる。

テスト期間が過ぎれば、そこには束の間の休息の後に課題提出の嵐が訪れる。少年がESLに通い詰めて強化したのは、こうした課題で提出する文の内容だった。

 

英語の課題の場合、内容が選択性だった場合には一番無難な第一選択肢を選ぶようにESLは助言した。無難な選択肢は他の問いに比べて答え易いかわりに、A評価が取り難い場合も多い。

だが僕にとって英語の授業で狙うのはC評価である。

C評価とはつまり平均値。ネイティブ達の、平均値。英語の課題でC評価を取ること、これはつまりネイティブと同等の英語力を発揮することになる。

 

だからC評価を目指した。

とにかくまず、英語に関しては真ん中を目指さなければならない。

その上を目指すにしても、真ん中は通らなければならない道なのだから。

 

ESLの先生は休み時間を潰して押しかける僕を、それでもしっかり補助してくれた。

まずは文章の構成、骨組みを組み立てる練習。序文から終結までの一連の流れ、この文章の流れを徹底的に叩き込まれた。意見を四方に飛ばさず、スタートからゴールまでを順番に完走する、そんな文章の構成法を教わる。

骨組みができたら、そこに文章を書いていく。一節一節の中に存在する話の展開方法も一から教わった。エッセイ全体の骨組みのように、一節の中でも序文や補助、終結などの法則性があることを掴んでいく。その法則性に則って、とにかく「基本的な文章」で構築されたエッセイを書くように心がけた。

C評価が妥当であろう、基本形を求めた。

書いてみた課題は印刷してESLの教室に持っていく。ここで、先生に赤ペンで文法や表現方法を添削してもらう。先生が理解できなかった表現は口で説明し、どのような表現方法が適切なのかを聞き出した。

英語の表現方法に関しては教科書に全てが載っているわけではない。感覚的に、先生と僕自身との表現の差を見出して体で学んでいった。

また、ESLの先生は僕に接続詞を重点的に勉強させた。

文章の流れを乱さないためには、それぞれの文が前後と繋がっている必要がある。これができないと小学生のような拙い文章に見える。逆に言えば、スムーズに話が繋がるだけで英文は飛躍して綺麗になる。内容ではなく「英文」を強化する必要があった僕にとって、接続詞は欠かせない存在になった。

色んな表現方法を種類別にまとめ、英語のノートの後ろに貼り付けておいた。

 

最初は添削してもらうたびに黒字より赤字のほうが多い日々が続いた。週末の2日を全部費やして書いてきたエッセイが丸々書き直しと言われ、涙目で教室を出ることもあった。

だが、自分の中では確かな進歩を感じられる。

今までの僕だったらここまで書けていたであろうか。

否、8年生の頃はまず日本語でエッセイを書いてから、それを翻訳する形で課題を書き上げていた。しかし今は違う。英語で構成し、英語で書いて、英語で添削をしている。夏休みでは文法しか強化ができなかったが、今はその一つ先の英語を学んでいるのだ。
実践的に使える英語を。

 

この英文作成強化は思惑通りの結果となる。

返されてきた課題には、ことごとく光るC評価の文字。

ある課題はC+であったり、またあるときはC-であったりしたが、平均的に見ればどこまでもC評価。理科や数学の成績ならば納得いかないであろうこの評価も、英語の授業では輝く評価だ。

 

そんな英文強化作戦も、一つだけ通用しない課題が2学期にあった。どんなに英文をしっかり書いても、それをもう一段階「表現」できないと評価の取れない課題。

スピーチだ。

どんなにスクリプトを上手く書いたところで、それを上手に話せなければ仕方がなかった。ただでさえ英語を「話す」ことがまだ苦手な上、人前に立って一人で4分間も話す必要がある。

 

しかし、もう僕は甘えない。

英語を話すことが苦手なら、たくさん練習すればいい。

スピーチには原稿があるのだから、臨機応変に対応する必要はない。何度も原稿を反すうして、頭の中に叩き込んでおけばスラスラと読めるようになるのだ。

 

だから必死に練習した。

自室で原稿を読み、トイレで原稿を読み、ESLでも読み、他の生徒のスピーチ中も読んだ。本音は、クラスメイトの前に立って恥をかきたくはない、そんな気持ちからきた焦りだっただろう。動機は何であれ、ゴールは一ヵ所なのだ。

英語の長文を喋り続けると思考が追いつかなくなり舌が回らなくなり発音もおかしくなる。だから何度も読んで原稿の内容を記憶してしまえるように努力した。英文を読むよりも、思い出して喋るほうが舌は回りやすい。

ジェスチャーやアイコンタクトにも気を使っての練習だ。英語が苦手ならば、英語以外の部分で点数を稼ぐのも一つの戦略だと思った。

 

僕のスピーチの順番はクラスの一番最後だった。くじ引きで決められたこの順番も、留学生ということで先生が特別に最後にしてくれたのだ。

しかしこれはかえってプレッシャーを増やした。周りの生徒は皆が自分のスピーチを終えて余裕を持っている。つまり、みんなが僕のスピーチに意識を向けて聴いていることになる。

心臓の高鳴る音が周りに聞こえてしまうのではないかと思った。

順番だ。

教室の前に立ち、周りを見回す。

突き刺さる20人余りの視線、40を越える目玉。

本能的恐怖を覚えつつも、僕は何十回と練習してきた最初の一行を発し始める。

 

4分間のスピーチは、体感では1分に感じられた。

もの凄い早口で喋ってしまったかと思ったがそれは違う、時計の針はちゃんと4分経過を示していた。途中で何度かつっかえることもあったが、乗り切れた。しっかりと、原稿どおりの内容をしゃべることができたのだ。

あとはC評価が貰えれば一安心だ。

 

言い渡された評価はCではなかった。

 

自分でも驚いた。

返された評価表にはBの文字が赤ペンで記されていた。

英語の授業で初めてのB評価だ。

先生の汚い筆記体を必死に解読して、コメントを読む。

 

ジェスチャーやアイコンタクトがしっかりと行なわれていた。発声や息継ぎ、声の強弱のつけ方も上手」

 

スピーチの内容に関しての評価は狙い通りのC評価だったが、スピーチテクニックに関してはB評価や、ところどころにはA評価までもが混ざっていた。


そうか。

 

まだ僕が英語を喋れなかったとき、相手とのコミュニケーションには手の動きを多用していた。
まだ僕が英語を聞き取れなかったとき、とにかく相手の顔を見て状況を判断しようとしていた。
まだ僕の英語の語彙が少なかったとき、声の強弱などで言葉に色をつけて誤魔化していた。

 

こんな経験が、スピーチの表現方法として活きたのかもしれない。僕の、英語自体ではないけれど英語の周りにある物、それを操る能力が活きたのかもしれない。

 

11月。

新しい学校生活に期待を膨らませた9年生が、自分の立ち位置や甘えに気づかされた9年生が、英文の作成方法に重点を置いた9年生が終わった。

 

英語の最終的な成績は、目標通りのC評価。一度は落第点すら経験した社会科は、その後は安定した合格点を取り続けてC評価。

数学は特進クラスでも周りに負けない成績を残してA+。

勉強が少し遅れていた理科はその遅れを取り戻した上でのB+。

セキュリティ系の授業で躓いたITのクラスも、その後の動画編集で盛り返してB。

日本語では当たり前ながらA+を取ったが、クラストップは学年上位のユーイチに持っていかれた。

 

進学校が故に、この学校では学年の成績はちゃんと順位付けがなされる。

上位15人の名前は校内新聞に張り出されていた。

並んでいる名前は全員見覚えがある。

数学の特進クラスでも特に成績争いの激しい奴らの名前ばかりが並んでいた。

一体、僕の成績は今で何位ぐらいなのであろうか。

気になったので、順位の訊ね方をハーリーに教わり、受け取ってくる。

 

渡された紙には、総合順位78位の数字。

学年120人のうちの、78位だ。半数にも届いていなかった。

 

―――英語が学年で一番できない、そんな立ち位置なのだから点数が取れないのは仕方がない。

 

そんな甘えた考えを、僕はもう振り払っていた。

仕方がないわけがない。無理なのではない。

もっともっと、気合いを入れれば上に進めるはずなのだ。

実際に、7年生の頃からここまで登ってきているではないか。

 

目指す未来は海洋生物学。

最低合格ラインはOP4。

この学校で、上位30位以内には入らなければ厳しいかもしれない数字。

 


もっと上へ。

もっともっと上へと進むんだ。

 

 

Chapter 3.5 - Realisation

9年生が終わり、夏休みに入った。

この年の夏休みは『兄貴』ことセンパイのお兄さんと共に、去年同様英語の強化を毎日行なうことになった。兄貴は来年が12年生である。理学療法(Physiotherapy)を目指している兄貴にとって、取らなければならない成績はOP3~4。僕の目指している海洋生物学に近いハードルの高さ。強化は必須だった。

 

家庭教師も昨年と同じマーガレット先生。

今度は僕と兄貴の二人組で、毎日4時間の授業をめっきり1ヶ月受ける。

去年の授業で使用した教材はアメリカで使用されている英文法解説書で、基礎文法を学んだ。それに対して、今年使う教材は昨年の教材から一つレベルが上になったもの。つまり、去年の勉強が基礎英文法だったのに対して、今年のそれは上級英文法となる。

僕にとっては、ネイティブの中学生が教わるような英語を学ぶことになるわけで、この教材は本来であれば僕の年齢に見合うレベルなのだ。

去年の勉強では文法に集中して勉強していたため、それらの文法を実際に組み立て「文章」にするスキルが身についておらずESLで大部分を補強していた。この弱点を今年の上級解説書で補っていく。

基本的な「文法のルール」は理解していることが前提であるこの教材が説く内容は「文章のルール」だ。英語の勉強の内容が、マクロの世界からミクロの世界へとシフトチェンジしている。


意外にも一緒に授業を受けていた兄貴がここで苦戦する。

中学1年生の途中で渡豪し、しっかりとした文法の勉強を固めずに学校で「生き延びて」英語を吸収してきた兄貴は、基礎文法のルールを細かく理解していなかったのだ。僕が去年の夏休みを消費して学んだ基礎文法を、兄貴はぼんやりとしか理解していない。今まで何気なく、英語を感覚で捉え感覚で使ってきていた彼は、英語をルールとして置き換えることが難しい。

意外であった。

学校に長く通っており、学校でも上級生の授業を受けている兄貴がまさか文法で苦戦するとは思わなかった。

英語を学ぶ上で、留学期間の長さや勉強量の多さは大きく影響する。しかしそれ以前に、英語を「勉強」しているかしていないかでの伸びの違いは桁外れに大きい。

感覚で学ぶ英語には確かに、実践的英語力を学ぶための大事な要素が沢山あるのだろう。だが、ときに英語とは文学的、学問的にならなければならない。

今まで『活きた英語を身につけよう』という構えだった僕は。

活きた英語『だけ』を身につけた場合の違いを知ることになった。

学生にとっての『活きた英語』とは会話能力だけでは済まされない。学生にとって、ちゃんとした文章を書けるかどうかは、時に会話よりも重要になってくる。

 

参考書以外の勉強でも、授業は徹底して「理解力」や「構成力」を追求してきた。

新聞記事を切り取り内容を一文に要約する練習。解らない単語は周りの話の内容から補い、全体の概要を掴み取り理解しなければならない。

社会問題に対する賛否のスピーチを書く練習。自分の話す立場を表現しながら書く文章は、軸のぶれない論理展開をしなければならない。

論文を読んだ後に問題を読み、その問題の答えが含まれているであろう項を一瞬で探し出す練習。項毎の主要な内容を速読で読み取り、質問文と照らし合わせなければならない。

 

英語の文法を理解しているだけでは、本当の使える英語ができない。

英語の雰囲気を理解しているだけでは、本当の正式な英語ができない。

そんな「できない」要素をとにかく練習し、身体に英文の読み方や書き方を習慣として染み付けていく。9年生で気づかされた自身の死角を埋めていく夏休みが続いた。

実践的な英語はこれからも何年という生活のうえで吸収していける。だが、勉強で必要とされる総体的な英語は自ら意図的に時間を費やして勉強をしていかなければならない。

ある程度の「活きた英語」と「基礎英語」を理解していた僕は、この二つを支えに次の一歩を模索した。

この二つを配合して考える、『総合英語』を模索した。

 

勉強の合間にはバイトにも励んだ。

この時期、趣味の熱帯魚に広く手を伸ばし始めていた僕は、自由に使える金が欲しかったのだ。

家に小遣い制度はない。小学生の頃には一日10円の小遣いが月払いで300円支払われていたが、移住と共に廃止された。家では「お手伝い」をしてお金を稼いでいたが、もはや足りなくなってきたのだ。

15歳がバイトをしたいと言い出したとき、母は大賛成をした。

親以外の大人に使われる上下関係、金と時間の価値、人間関係、多様な技術。そういった、学校では教わることのない勉強をバイトを通して理解することの大切さを母は心得ていた。

しかし未だにネイティブ視点で物を言えば、僕はまだまだ英語が喋れない。接客などの経験もなく、15歳という年齢の若さや体力の低さから、雇用先はそう見つからない。

そこで売り込んだのが、知人がやっていた庭仕事。

移住してきた日本人である彼は、リタイアしてきて豪邸に住んでいる日本人を相手に大きな庭の管理や掃除を副業として行なっていた。ここであれば、英語ができないことはハンデにならない。接客の経験も庭仕事には関係のない話であり、体力面でも中学生のスタミナで十分にこなせる。

ここに時給8ドルで、不定期的に週末などに雇ってもらうことになった。


仕事の内容は主に芝刈りと落ち葉などのゴミ拾い。最初は単純な作業だと思っていたが、その先入観は仕事を開始して数分で消し払われる。

無駄に大きい豪邸はいくら芝を刈っても終わる気がしない。夏場の炎天下で15kgの芝刈り機を押す。汗を掻いても湿度5%を切る乾いた空気がすぐに蒸気に変えて風にさらわれる。刈った芝が重い。塵が目や鼻に入って痛い。仕事というのはこれほどまでに大変なのか。

 

必死に自分のノルマを終わらせて車に荷物を積み込み、時計を確認してみた。あの数時間にも思えた作業が、実は1時間で終わっていた。あれだけ苦労して汗を掻き、やっと僕は8ドルを手にしたことになるのか。

 

帰り道、ガソリンスタンドによった雇い主の意向により、ジュースを一本奢ってもらった。トロピカルジュースは一本2ドル。

 

昔だったら30秒で飲み干していたであろうそれを、僕は15分かけて大事に味わった。

 

 

Chapter 3.6 - Award

英語漬けの夏休みが終わり、既視感を感じつつ10年生の始業式を迎える。

日本であれば高校生活が開始する学年であるが、オーストラリアの10年生は中学生。まだ勉強にあまり追われることのない、子供が自由に動ける最後の年ともいえるのだろうか。そんな「最後の何をしてもいい学年」を、僕は英語の更なる強化に繋げなければならない。

来年からは英語の強化をする余裕はない。勉強から英語を吸収する以外に時間が割けない。今年までにどこまで英語を延ばし、どこまで勉強を試すことができるか。海洋生物学のハードルであるOP4を目指す僕にとって、この年は迫る高校生にむけての最終模試。

 

周りの緩い空気の中、一人で異様な執念を密かに燃やしていると、一人の生徒に話しかけられた。見慣れない制服・・・いや、この制服は確かに僕の学校のものだ。

 

見慣れないのは制服ではなく、僕の学校の制服を着ている人物。

否、その人物自体もよく知っている。

前の学校で、7年生の2学期に僕のクラスに転校してきた奴だ。名をジョッシュという、幼少期にニュージーランドに移住して市民権も獲得している韓国の男の子。見慣れなかったのは制服でも人物でもない、制服と人物のワンセットだった。

 

久しく再会したジョッシュは、色々と経緯を話してくれた。

要約すると、医学部を目指している彼はやはり僕と同じく、前の学校のレベルに危機感を覚えたらしい。すると、同じクラスだった僕が学業レベル向上の目的で転校してしまい、慌てて彼も僕の後を追いかけたそうだ。

同じ新天地に、同じ理由をつけての転校、完全に真似をされている。驚いたことに、偶然にも10年生のクラスも選択科目を含めてほぼ同様という徹底さだ。理科、社会、英語。選択科目も日本語とITのクラスが被っていた。

 

そんなジョッシュが僕の一番の友達になるのに時間はかからなかった。二人で共に、前の学校からの脱出を喜び称え合う。同時に、転校までしたのだからと、お互いに夢に向かって突き進む約束を交わした。

 

僕の学校では毎年、1年生~10年生が1学期の中盤に自由研究を発表し、出来を競うコンテストがある。理科の授業の一部であり、この研究はしっかりと採点されて成績に影響する立派な課題だ。また、これらの作品は学年ごとに貼り出され、理科教師や近隣の大学教授達を招き入れて採点もされる。その内容や着眼点が素晴らしいとされる作品には、1~3位、それぞれ賞が与えられるのだ。

 

9年生の頃は、転校したばかりでこのコンテストのことを僕はまだよく知らなかった。日本の自由研究よろしく、適当な子供だましの発表会だと思っていた。だから時間もかけず、家の前に行列を作っているアリの食性観察と称し、違う餌に対する食いつきの違いを探る簡潔な統計実験を行い、それをA4文書にまとめて提出した。

しかし、この「自由研究」は当時の僕の想像をはるかに超えたスケールだった。

提出日、作成したレポートをカバンに入れて登校した僕は生徒達が大きな展示版を抱えているのを目撃した。光り輝くモデル標本、色とりどりの薬品写真、実験で作ったのであろうか自家発電機を展示版に貼り付けている生徒や実際の車のエンジンを断面している生徒までいる。

皆がところ狭しと展示版を机の上に並べている中、僕は空しくA4紙を束ねたレポートをそっと机端に置いた。内容は安定していたため学校の採点結果は90%であったが、コンテストでは気づかれもしなかっただろう。

 

だから10年生である今年はこの自由研究コンテストに闘志を燃やしていた。

リベンジである。このコンテストは10年生までしか参加しない。今年が最後のチャンスなのだ。


去年、僕と共にこのコンテストの展示品を見に来ていた母も、まるで自分のことのように気合いが入っていた。僕の闘志の源が「周りに負けないような格好いい展示」であったのに対して、母のそれはちょっと違う。

このコンテスト、学校が定めて大学教授なども呼び込む立派な大会であるがため、もしも入賞できればそれは僕の履歴の一部になる。海洋生物学に応募する際、「理科実験大会 入賞」の文字があればどれだけ効果的か。

目前の気合いを入れる僕、未来への期待を膨らませる母。二人が目指すは大会で入賞できるほどのインパクトのある実験研究。

 

前回の大会を視察してきた二人の意見は同じだった。

これは日本のいう「自由研究」などといった甘いものではない。完全に、親が子供の研究を手伝ってあげることが前提にされているかのような大会である。そうでもしないと、9年生のガキが自家発電機を作ったりエンジンを切断、溶接はできない。

 

そこでまずは実験内容を二人で考える。

ここで決める発想力が、この大会で一番重要視される大事な要素。何かを組み立てる程度ではただの工学、説明書と設計図を読めば誰にでもできてしまう。ボールや水を使った物理実験はインパクトに欠けるほか、法則に従っている以上あまり発想がない。化学的な実験は薬品や爆発を使用すればインパクトは出るが、素人が手を出せる範囲には限界がある。

悩む必要はあまりなかった。結局は僕と母が考えることである。

自由研究は生物学の観察実験で行くのが、小学4年生からの家でのセオリーだ。観察実験といっても、統計的な実験ではただのデータになってしまい面白みがない。インパクトがあり、誰の実験とも被らないような面白い実験。

 

導き出した答えが「ザリガニの白色化」だった。

そもそも、この進学校に転校する際の面接で、母が学校側に僕を売り込んだ一番の要素。その謎の趣味と知識に、この学校は飛びついてきて異例の転校になったのだ。

ザリガニの体色はカロテノイドという赤色色素で多くが構成されている。エビやロブスターを茹でると真っ赤な色に変わるのも、この色素のせいだ。そしてこれらの色素を、ザリガニは餌から摂取することで体内に溜め込む。植物性の餌や動物性の餌、色々なものに含まれるカロテノイドを蓄積していく。

そのカロテノイドを含まない、例えば白味魚だけを与えザリガニを育てるとどうなるのか。色素を摂取することができずに身体が大きくなっていくと、だんだんとザリガニは色を失うのである。最終的にはアルビノとは違う、白色化したザリガニが完成する。

 

すぐに実験にとりかかった。

まだ自由研究が始まる前だったが、実験期間が指定されていない大会なのでフライングスタートで問題ない。実は白色化したザリガニはすでに僕の部屋にいるのだが、これでは実験にならない。「数」ではなく「質」を視る観察実験は、「比べる」ことで初めて実験の体を成す。

母の投資により水槽が4つ用意された。一つの水槽には白味魚を与える。一つには色素を多く含んだサーモンを与え、一つにはカロテノイドの種類が違う昆布と白味、そして最後の一つには市販のザリガニの餌を与えた、対照動物も用意した。

 

3ヶ月以上の実験の途中、脱皮不全などに見舞われつつもなんとかこの実験をやり遂げる。この長期実験は「内容」の面で大きく評価されるはずだ。他の生徒たちは長くても一週間で終わる実験をしているからこそ、生物学の観察実験は輝く。

 

また、インパクトの面も重視した。

この大会は全生徒が大きな机にそれぞれの研究を並べ、それを閲覧する形で行なわれる。インパクトを与えるための第一条件は大きいこと、次に「異質」なこと。大きさに関して、母はわざわざ特注の展示版を知り合いの大工に頼んで作ってもらった。横1m、高さも60cmは越えるであろうか、そんな大きな3次元展示版に実験結果を張り出す。

実験の主体はやはりレポートだった。

深夜遅くまでレポートを書くこと3週間、それを家庭教師にしっかりと添削してもらった。プリントアウトしたレポートをファイルに入れ、そのファイルを展示版に接着する。また、おおまかな概要やグラフ、写真などは別に、ファイルを開かずとも見れるように展示版に張り出した。特に一番重要である白色のザリガニの写真は、写真屋でしっかりとA4サイズでプリントしてもらった。

最後に肝心な「異質さ」を加える。

どれだけ展示や写真が大きくても、それは周りに数百もの写真があれば埋もれてしまう。だからこそ、この実験展示には「ザリガニの脱皮した殻」を標本にして加えた。

自由研究の決まりごとの一つとして、動物の扱いに関する決まりごとがある。動物を絶対に殺めてはならない、解剖してはならない、などだ。動物愛護の観点から、命自体を題材にさせない決まりごとである。

つまり、生物関連の実験や研究をした生徒に「生物標本」はご法度なのだ。

そこを僕は掻い潜る。標本にしたのはあくまでも「脱皮した殻」であり、ザリガニ自身は健康に水槽の中を泳いでいる。しかしこの標本には時間経過とともに殻が赤味を失っていく様子が鮮明に写っていた。

これで全校生徒の中で唯一、生物標本を展示することができるのだ。

 

提出日、大きすぎて一人では運べないこの展示物を友人に手伝ってもらいつつ教室に運び入れる。その圧倒的な大きさと訳のわからない実験内容に、教室中の視線が集まった。恥ずかしい気もするが、それは去年の恥ずかしさとは正反対だ。

あとはこの視線が、大会でも集まることを祈るばかり。

 

結論から言うと、入賞した。

3位だった。

正直な話、あそこまで大きな展示品を作り、3ヶ月を費やして標本まで加えたので1位も取れると思っていた。しかし実際はそんなに甘くはない。

一位を取ったのは学年の総合成績1位を維持し続ける天才女子。実験内容は「X線による犬の体長と心臓の大きさの比較」という、知り合いに獣医師がいないと絶対に成立しないような本格的すぎるものだった。

二位を取ったのは実験系ではなく、双子の兄妹の研究発表。宇宙におけるエネルギー確保と、そのエネルギーをビームの形で地球に送る研究。当時の物理の最先端を、論文を読み漁ってまとめた研究だった。

周りのレベルが高い。

ここまで気合いを入れて、やっと3位に食い込めたのか・・・。

だがそんな細かいことはどうでもいい。順位なんて、終わってみれば些細なことでしかないのだ。とにかく入賞できた、その事実が僕を満たしていく。

 

思えば、学校のイベントで「入賞」するのはこの学校では初めてだ。

翌日、学校新聞に自分の名前を発見した僕は、懐かしい感覚を得る。

何かをやり遂げた達成感、成功して満ちる気持ち。

進学校のレベルに塗りつぶされかけていた感覚が戻ってくる。

 

 

Chapter 3.7 - Be Smart

10年生になるとESLに新しく2人の生徒が入ってきた。

一人は韓国はソウルからきた女の子、もう一人は中国は北京からきた女の子。二人とも本国で相当勉強をしていたであろう、そんな『ガリ勉』のオーラが漂っていた。

メガネに黒髪、手には教科書。化粧気もなければ運動系の俊敏さもない、机と図書館が定位置であろう、そんな雰囲気。典型的な「Asian Nerd」と呼ばれるであろう、そんな空気を醸し出している。

 

初めて彼女達と顔を合わせたとき、感じた第一印象は違和感と疎外感。

オーストラリアでは見たことのない、アジアのにおいが染み付いていた。一日の勉強時間が14時間を越えていたであろう、そんなにおい。日本にいた頃、僕が釣竿を肩に自転車を走らせている中すれ違う、弁当を片手に塾へと向かう学生達。夕日を背に釣りをしながら敬遠していた、そんな奴ら。

彼等に似たにおいだ、そんな記憶がよみがえる。

 

正直、ああいう風にはなりたくない。

ガリ勉』と呼ばれる人には、なりたくない。

ただでさえアジア人の留学生はAsian Nerdというステレオタイプが貼り付いて来る。自分が敬遠していたイメージを振り払いたい。だから僕は遊び心を忘れずに勉強をこなす、そんなオージーの心を目指そう。

 

8~9年生の頃、学校の授業科目は必須の英語と数学のほか、理科や社会、それに音楽や外国語などの選択科目が3つで構成されていた。生徒達は各々、どの教科もその界隈の「基礎」を教え込まれる。

9年生までに様々な分野の基礎を習った僕達の授業は、10年生になると少し変化した。全教科選択科目制である11年生、そしてそのまま影響が続く大学進学。その大事な一歩を前にした10年生の教科は、後の選択をより簡単に行なうために少し細分化されたのだ。

 

社会科の授業は、一学期が地理の授業になり、二学期は世界史の授業になった。

去年の社会科のテストでは人生で初めての落第点を取ってしまったこの科目。それが地理の授業に変わった途端、急に得意科目になってしまう。地理とはその名の通り地の理を説くわけで、これは理科に通じるところが多々ある。川の流れや地殻変動、天候など、授業で習う内容が全て非常に論理的なのだ。

ああなればこうなる。法則を憶え、それを応用して答えを導き出す科目には強かったため、一学期の地理ではA評価もよく取れた。

 

これが二学期になり、世界史の授業に変わってしまうと反動が大きい。

落第点を経験した社会科の、特に苦手な部分を凝縮した科目である。歴史の授業に法則はない。ひたすらに名前と年号、出来事を暗記していく科目である。ただでさえ英語で苦労している僕にとって、暗記物はスペル一つから難しい。

しかし、そんな苦手科目にも需要内容に活路はあるように思えた。授業内容は第二次世界大戦と、その後の冷戦だったからである。第二次世界大戦については日本人であることが有利に働くかもしれない。

予想は軽く覆された。

なんと、第二次世界大戦の授業にも関わらず、太平洋戦争に全く触れなかったのだ。
オセアニアも太平洋戦争の戦場の一部だったにも関わらず、だ。豪州北部は日本によって爆撃を受けているにも関わらず、全く触れない。

理由は単純だった。第二次世界大戦中、オーストラリア軍はイギリス軍の援軍として働いていたからである。オーストラリアの目線から第二次世界大戦を見たとき、映るのは欧州連合軍対ドイツの戦いになってしまう。

また、豪州軍の話が出てきても、スケールが小さい。イギリス近くの島への上陸作戦でドイツ軍の待ち伏せを食らい200人の死者が出た、そんな一戦が最も苦戦した戦いとして教科書を飾っていたのだ。結果、第二次世界大戦についての授業は自国よりもドイツやイギリスの事柄を多く学んだ。

予想外の授業体勢に一度は赤点も覚悟した。暗記は苦手であり、全く事情を知らないマイナーな島の侵攻などを話されても困ってしまう。

しかし、後に学んだドイツのナチズムに関しては興味を引かれた。

日本の授業ではナチスの行なった「出来事」ばかりを語るであろうこの分野で、オーストラリアの授業ではナチスの背景、民衆の動向やヒトラーの内面を深く追求していったのだ。

出来事だけを語られていたのであれば、それは僕の苦手とする完全暗記の世界である。だが、ナチスヒトラーの背景、動向、心境などは、物事の「繋がり」を重視した勉強。繋がりは理論を構築していくので、理解しやすく興味が持てた。ヒトラーを美しく脆い思想と表現したこの授業は、僕の歴史に対する価値観を大きく変えた。

 

理科の授業も細分化される。

去年までは一人の教師が教えていたこの授業も、時期に応じて生物、物理、化学の3つの授業に分けられ、それぞれに専門の教師がつくようになった。理系を目指す僕にとって、この変化がもたらす影響が一番大きい。

 

化学の授業。

化学は将来的に理系に進む人間にとっては必須の勉強なので、11年生でも絶対に選択する科目だ。この授業は得意な、論理と法則で固められた勉強。

周期表別の元素の特徴を把握し、陽子と電子の動きを把握してしまえば怖くない。
そしてこの「把握」に言葉は必要がないのだ。元素の「反応」や陽電子の「動き」など、視覚的に理解してしまうことで英語の壁を乗り越える。

 

物理の授業も陽気な教師が就き、楽しかった。

数学が一番得意な僕にとって、物理の授業は数学同様にトップの成績を取れる、天国のような授業。物の動き、力やエネルギーの動き、原子の動き。ここにも言葉の壁はほとんど存在せず、ましてや実際に行なえる実験で視覚的に理解できる。

法則の意味を理解して、応用問題を解く。細部に至るまで得意と思える要素で成り立っている分野だった。

 

生物の教師は僕の「自由研究」を一番評価してくれた先生が担当する授業。

海洋生物学を目指す僕にとって、生物学の授業は一番楽しく、また成績の取れる科目でなくてはならない。

理想と現実は違う。

歴史、英語の授業に続いて苦戦させられたのが、なんとこの生物学だった。得意である理系の科目であるのにも関わらず、あまり良い成績が取れないでいたのだ。他の苦手科目に通じる部分が、この生物学にもあったからだ。

つまり、単語の暗記量である。

理系科目の中で、生物学は群を抜いて専門用語が多いのである。理論、発見、解剖、症状。習う全てに新しく小難しい専門用語がつきまとってくる。数学的要素はほとんどなく、視覚的に理解できる事柄も少ない。理系科目なのにも関わらずC評価を数回出してしまったこの科目は、僕に大きな不安と疑念を生む。

 

果たして生物学の方向に進んでいって大丈夫なのだろうか。

苦手な方向に進んでいって、途中で折れてしまわないだろうか。

 

考えるまでもない、生物学に進むのはもはや決定事項。

生物学の方向に将来の夢を見るのは、物心がついて以来ずっとぶれていないのだから。
それよりも今、一番大事なのは目の前の問題。成績を取れるだけ取り、OP4を得て海洋生物学に入ること、それだけに集中するしかない。

 

 

 

Chapter 4に続く>>

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