「では19時に病院に来てください」
電話先で伝えられてから初めて緊張が走り出した。いや、実際には日中から割とずっとソワソワしていた気もするが、明らかに自覚できる動揺はこのタイミングであった。
まだ陣痛と思わしき事象もほとんど起きていない母体ではあるが、予定日まであと3日に迫っている状態で胎児の大きさは既に3.5kgを超えていたため、産科の先生と話し合った結果、この日から入院して分娩誘発を行うこととなっていた。
「とりあえずメシだ。飯を食おう。何がいい?」
「えっ、分からない...」
相方も当然ながら動揺しており意思表示はおぼつかない。結局のところは近所のスーパーでキエフを購入してキャベツの千切りと冷凍飯で流し込んだ。空腹になっている感覚は全く無かったのだが余裕で完食できてしまう辺り、やはり身体と心がある程度離れてしまっている状態なのかもしれない。
19:20に病院到着。すまん普通に遅れました。待合室には妊婦と旦那がもう1組待っており、そこから更に30分ほど待たされたところでBirthing room 2なる部屋に通される。これでも私立病院だからまだ平和だ。噂に聞くと公立は地獄のように忙しくカオスのようで。
「貴女は今日何をすると思っている?」
案内してくれた助産師は初手で面白い問いかけをしてきた。医者の使うOpen-ended questionに近いが、医学的な意図がイマイチ読めない。どちらかと言うともっとサイコロジーに寄せた問いに感じる。ヒトが相手ということも勿論だが、常日頃から初産婦を相手に仕事をしている環境故の心身に寄り添った問診であることが伺える。
「今日はadmit(入院)で、明日IV oxytocinってイメージで来ました」
鎌をかけるようで悪いがこちらから仕掛けてみる。
「ん?貴方たち」
「はい、二人とも獣医師です」
すぐに察する助産師さん。一般人はIV oxytocinなんて言葉は使わない。医療従事者は医療従事者であると明かしておいたほうが話は進みやすいと個人的には思ってる。
「今日はまず赤ちゃんのバイタルを測ってから膣内にprostaglandinのジェルを入れて、夜間にかけて子宮口を3センチ以上開かせることを目指すわ。上手いこといったら明日の朝から人工破水で、貴方たちの言うようにオキシトシンの静注ね。今夜は人によっては陣痛みたいな痛みがあるけど、理想的なのは寝て起きたら骨盤が開いてる状態ね」
矢継早に情報が飛んでくる。なるほどなるほど。
男側としては残念ながらここまで来ても他人事状態でしかないのが逆に怖い。
そもそもこの文章を書いてる現在は病室の一角の簡易ベッドで横になっている状態なのだが、ちょっと自分でも不安になるくらい冷静で無機質な気持ちである。
入院の時間が決まって久しぶりに「不安」という感情を抱いた感覚はあったが、この不安に関しても9割9分が「嫁ちゃん大丈夫かな怖くないかな痛くないかな」という類の不安であり、驚くくらいに「子に向ける不安」を未だ感じないのである。
子を持つ男友達に聞く限りでは男ってモンは基本そういうもので、親としてのスイッチが入るのは実際に子を見た瞬間からであると言う。イソイソとこうやって文章に残しているのは、はたしてすでに病院の簡易ベッドで横にまでなっている自分の気持ちがしっかりと変わりスイッチが入るのか、という興味である。我ながら冷酷な興味である。これスイッチ入らなかったらヤバいんじゃねぇのか?
でもきっと男側が「我が子」を実感するタイミングとはそういうものなのであろう。女性側は出産前から明らかな「子の存在感」を肌で、というかもう内臓で感じているものである。しかして男側はインプットが無さすぎる。嫁の腹が大きくなろうが、腹に当てた手が胎児に蹴られようが、その体験は全て嫁の変化でしか無いのだ。あくまでも胎児とは未知である。
超音波を通して見る胎児だって物理的に実感が湧かないのだ。一端の医療従事者として超音波検査のイロハは知っているような野郎でもこれである、一般男性であれば更に意味不明であろう。
ただしここまでの過程で唯一「子供」を一瞬だけ、ほんの一瞬だけ認識したタイミングはあった。それは36週目の定期検診のときに産婦人科の先生が胎児の位置を確認するために経膣触診をしたときであった。指を入れてすぐに「あぁもう頭もだいぶ下がってきてるね」と言った瞬間だけは他のどのタイミングよりも「子の存在」を感じたのである。経膣触診で胎児に触れる、という医療行為は動物で色々やってきたことなので、ここでようやく自分の「触診という実体験」と産婦人科の先生の言葉が重なり、実感が湧いたわけである。
超音波検査の画像も、胎児の心拍音も起爆に至っていない父性ではあるが、仮説として「子に触れる」という触覚は起爆力がありそうである。
明日が楽しみだと言いつつも、きっとこんな文章を残しているのは不安を紛らわしているだけなのであろう。嫁ちゃん頑張ってくれ、僕はひたすら無力に君の手を握っていよう。
