とある獣医の豪州生活Ⅱ

豪州に暮らす獣医師のちょっと非日常を超不定期に綴るブログ

とある獣医の豪州生活Ⅱ

僕と英語と、移住と学校。⑧ (完)

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Chapter 8.1 - Naive Preference

高校生最終学年において未だ「進路どうするかな」などと悩んでいる場合ではないことは万国共通である。前期が終わろうとしている5月末には基本的にどの大学も希望進路の提出期限が来るため、青年を含めた12年生達は皆がそれぞれ、思い描く未来に期待と不安を募らせながらまだ見ぬ未知の世界である大学と呼ばれる場所に各々が出願書を提出していた。オーストラリアの大学には基本的に受験や入試が存在しなく、希望した大学の希望した学部に入れるかどうかは高校の成績で決まることは散々書いたが、この「希望する学部」に関しては割と早い段階で出願を出すのである。各大学ごとにそれぞれ5〜6学部ほどの希望を、第一希望から順番に提出するそれは、地味な作業であるが夢が詰まっていた。

 

各大学ごとの提出であるため、希望する学部によっては20校も30校も出願する作業となるが、青年の第一志望は今でこそ現実味を帯び始めた獣医学科であり、獣医学科のある大学はオーストラリア全体で7校しか存在しない。青年はこの7校に出願を絞り、全ての大学において第一志望を獣医学科に、第二志望以下のいわゆる『滑り止め』には歯科医学科や各種工学科などを並べて提出した。

 

獣医学科の出願は特殊なものが多く、一部の大学では一般出願の他に書類選考用のエッセイや職歴、動物との関わりや経験を問う質問への解答集などを別途に求めてきた。大学受験では無いが、場所によっては明らかに勉学における成績以外の人材選考があることが見て取れる。

 

青年は、そこに並ぶ質問の厳しさに歯軋りした。問われている内容が難解なのではなく、求められているレベルの経験値と質が問題であったからだ。馬や牛や羊をどこまで扱ってきたか、牧場での経験や動物に関するボランティア経験、畜産動物との関わりや職業経験など、多岐に渡って問われる内容は、牧場出身者でなければ半分以上が白紙提出になってしまうようなものばかりであった。東京生まれ東京育ち、そこからは英語に苦戦し机に向かうこと以外に余裕のなかった青年には、およそ一般人よりも毛の生えた程度に動物と関わってきた過去しかない。

 

ある大学の求めたエッセイの内容は「飼い猫を室外に出すことを禁止する法案がある。貴方はこれに賛成するか反対するか」といったものであり、これも青年を悩ませた。問われている内容に完全な正答は存在せず、両方の立場にメリットとデメリットが存在する。獣医学科の求めている内容は何か。環境問題や動物福祉の観点から賛成意見に寄せて書くのが正答のように見えるが、それでは上澄みを知っているだけのように映らないだろうか。大部分の出願者が賛成意見で提出することを読み、敢えて反対意見を主張することで有象無象の意見に埋もれない際立たったエッセイを仕上げるべきであろうか。ただでさえ英作文にハンデを背負っており、学業における英語のエッセイはC評価狙いを続けてきた青年にとって、ジレンマの問題に関するエッセイをA評価狙いで書けと言われること自体に厳しいものがあった。

 

学業は追いついた。言語の壁を破り、永遠とも思える遠泳のような時間をもがき、ついには希望の陸を捉え、高嶺の花に手が届く範囲まで歩みを進めてきた。しかしそれは負の数から正の数になった過程であり、正の数から正の数に歩みを進めた連中と比べればあまりにもスタートラインに立つのが遅かったのかもしれない。その間にも、同じ獣医学科を狙うライバル達は牧場に生まれ、馬を飼育し、動物病院でバイトをして、海外のシェルターでボランティアをしてきているのかもしれない。大学の出願は、青年に経験の無さを深く重く想像させた。

 

Chapter 8.2 - Overall Position

期末試験直後は、前期と後期の間に位置する冬休みまで残り 1週間程度であり、生徒達は期末試験が終わった安堵と溜まったストレスのはけ口を求めて緩い空気が流れ、採点に追われる教師達もまたこれを許容し助長する雰囲気に包まれるのが常であった。しかし12年生においては前例の通りにはいかず、期末試験から解放された青年達は学年丸ごと、すぐにQCS試験への対策講座へと駆り出された。

 

QCS試験とは当時のQLD州が独自に行なっていた、いわゆる共通試験のようなものである。英数の4択問題、英数の短文答案、英作文の3種類によって構成されるそれは、QLD州にある高校で9月に同時開催され、全ての学校の全生徒が参加する必要があり、州の委員会によってこれらが採点される。選択科目毎の試験などはなくあくまでも必須である数学と英語(国語に該当)だけの試験で、これによって測られるのは生徒一個人の成績という面よりも各学校の勉学能力の平均値を出すという意味合いの方が強い。つまり、QCS試験で高い平均値を出している高校はレベルが高く、低い平均値を出している学校は勉学に弱い生徒が多い高校と判断される。個人単位で語るのであればこれは、レベルの低い高校でA+評価を取っている生徒と、レベルの高い高校でA-評価を取っている生徒では、OP基準での補正が入りA-の方が評価が高くなることもある、といった評価値の算出システムである。

 

学校としてはこのQCS試験の出来具合によってその年のOP1輩出数などに影響してくるため、生徒の未来のため、学校に箔をつけるため、12年生には出来うる限り高い数値を出して欲しい。よって青年達はまず試験の傾向を教えられ、過去問を解かされた。4択問題と短文答案はかなり常識的な英語の問題と、基礎的な数学の問題で構成されていた。一部の英語の問題は青年にとっては難しかったが、数学に関しては予習無しでも9割以上は余裕で取れるような簡単な内容であった。学校側もこれらに関してはほとんど触れていなかったところを見ると、生徒達の地頭には自信を持っているのだろうと青年は感じた。

 

QCS試験において圧倒的に難解であったのは英作文であった。2時間で約600字という制限自体は緩いが、この作文試験の難しさはその抽象的なトピックの出題傾向にあった。ある年の出題は「Lightについて600字書け」であり、またある年は「Shapeについて600字書け」であった。具体的な出題の説明や補足は一切なく、いかにトピックからずれずに綺麗な文法、文章構成、話の展開ができるかが問われるような試験である。作文そのものの縛りもなく、物語からポエムまでどんな文章でも許される試験であったため、青年は自身が一番書き慣れている論文方式で理詰めする文を書いた。

 

9月、QCS試験まであと数日というその週は学校全体が静寂に包まれていた。この大事な共通試験を万全の体制で行いたい学校側は、12年生以外の学年のほぼ全てを「修学旅行」という名目のもとで蟄居させた。本来たくさんの声が飛び交う昼休みの校庭には、キバタンとゴシキセイガイインコの嬌声しか響いていない。QCS試験3日前には12年生達全員が講堂に集められ、実際の試験日同様の日程と時間制限の下、最後の過去問を行い調子を整えさせた。

 

試験当日の青年達の顔は緩やかであった。期末試験のそれは自分の得意科目で勝負する、自らの勉強と復習が運命を分つものであるのに対し、QCS試験はその試験傾向に慣れる以外には予習や準備のしようが無いものであったため、彼らにできることはただ眼前に配られる試験用紙を、その時のテンションとアイディアで埋める以外にないのだ。淡々と4択問題を終え、単文解答を終えた青年達に配られた最後の難関である作文のテーマは「Circleについて600字書け」であった。

 

Circleとは何か。丸。円形。輪。環。圏。取り巻くこと。過去の設問も曖昧なテーマが多かったが、やはり今年も非常に抽象的である。範囲としてはそこそこ広いのでショートショートや物語を書くテーマとしてはある程度やりようがありそうだが、英語C評価を安定して狙うことに全力を費やしてきた青年には英作文でそのような小技は使えない。こういう状況に置かれた時は得意分野に引き込んでしまうのが吉である。そう考えた青年は「円周率はなぜ無理数であるか」を数学的というよりは抽象的な文章説明として600字で語って提出した。あくまでも英作文のテストであるため詳細な証明や事実の確認は必要ない。であれば慣れ親しんだフォーマットである堅苦しい第三人称の証明を書き殴ることを選択するのは理数系にとって息をすることと同義ではなかろうか。

 

QCS試験の終了のチャイムは学徒全員の安堵とどよめきによってにわかにかき消された。人払いを済ませた校内に響き渡った声はおよそもう聴くことができないであろう集まりによって構成された、とても儚く大きな声であった。

 

Chapter 8.3 - Sparsed out

QCS試験も終わり高校の後期も後半に入る頃、そこには下級生たちの天下が広がっていた。青年達も通ってきた道であり、歴史は繰り返すものだ。12年生達にとっての後期後半は消化試合の体を成す。学校成績の90%近くは12年生の前期、後期前半とQCS試験によってほぼ決まっていると言ってよく、残された後期期末試験の重みはそこまでないことの安堵感と、期末試験までの間の授業が少なくなる科目が多くなり、そもそも学校への登校数自体が減るため、12年生達の姿はあまり見ないし気も緩んでいた。青年を含めた一部の生徒にとっては残りの10%であっても全力で拾いに行かなければいけない成績であるが、大部分の生徒にとってはすでに「安全圏」もしくは「諦める時期」に入っているのである。

 

青年の選択する科目の多くは授業が残っていたため、クラスの級友達とは顔を合わせていたが、文系を多く選択する生徒などとは顔を合わせる機会が極端に減った。12年生用のラウンジにも空きスペースが目立つ。そこには見慣れた喧騒もひしめく級友達の姿も無く、遠幕にラウンジの使用権を狙う11年生たちの視線を感じる世界になっていた。

 

最終成績に響く割合が少ない後期期末試験だが、成績上位で争う青年達にとっては12年生全体の空気感とは裏腹にまだ気が抜けなかった。授業には毎日しっかりと参加した。宿題をこなし、復習と自習を欠かさなかった。青年に隙はなかった。期末試験の準備はまず早々に物理から始め1週間をここに費やし、一旦物理に蹴りをつけると数Cをまとめ、試験2週間前からは他の科目の復習もそこそこに化学に重点をおいてしっかりと反復学習を行なった。11年生からの流れで、化学が一番伸ばせる科目であり一番守るべき科目であることは把握している。青年に隙はなかった。

 

否、青年は自らも気付かない程度に、周りの緩い空気感に影響されていたかもしれない。

 

化学の期末試験は作戦通りであったと言えるだろう。長文を含めた試験の問題は全てを埋められたし、多くの準備時間を費やし復習した内容は試験前までしっかりと定着しておりアウトプットされた。物理と数Cも問題はなかった。化学の勉強に集中する前におさえた公式は試験直前の最終復習で確実に記憶の表面に掘り起こされ、これを有意義に試験に使うことができた。英語の試験は安定のC評価を目指したものの、こちらのエッセイはどういうわけかB-評価という高水準を叩き出し、日本語の試験は言わずもがな100%が保証されていた。

 

転んだのは数Bであった。ここまで少年を、僕を、青年を守り押し上げ引き延ばしてきた数学の最終期末試験で、青年は単純な計算ミスを3つ犯していた。たかだか3つのミスであり、A評価は揺るぎないのだが、多くの生徒が必須として選択している数Bでの減点は想像以上に大きいかもしれない。青年は己の詰めの甘さに歯軋りした。どれも初歩的なミスであり、しっかりと見直しをすれば気づけたかもしれない些細なミスである。普段であればあり得ないと感じてしまうような、単純なミスばかりである。しかし青年は気づかなかった。他の全ての科目の試験が終わっている状態の、高校生活で最後の最後にあった試験で、あと10分で全ての戦いが終了すると感じたあの瞬間、青年は気を緩めて油断し、そして慢心した。得意な数学という驕りが、気持ちに魔を刺した。既に高校生活を終えたような空気感を醸し出していた周りの生徒達の表情に、青年はあてられた。それら全ては言い訳でしかない、結局のところ、最後まで集中力を維持できなかった青年自身の弱さであると認めざるを得ない。返ってきた答案用紙を見て青年は後悔の念に苛まれた。

 

Chapter 8.4 - Agonising

12年生の卒業は非常に呆気ない。日本のような格式張った卒業式のようなものはなく、8−12年生までの全生徒が一緒くたに集められ、各学年の各教科における成績トップの表彰が終わると、下級生達の拍手に送られ青年達12年生はあっさりと学舎を後にした。学年ごとの成績順位発表もこの日に行われるので、青年は慣れた手順で校内新聞を受け取り自分の順位を確認する。そこにはもはや当たり前のように青年の名前が載っており、青年は12年生後期においても、学年順位7位をしっかりと維持・死守していることを確認した。普段は上位15名の名前が記載される校内新聞であったが、今期のそれには16名の名前が並んでおり、注意書きには「同率順位を含む」と書いてあった。流石の最終学年、上位争いは熾烈を極めていたことが窺える。

 

11月、12年生たちは競争の起こる勉学から解放された。12年生の最終成績であるOPの結果は卒業時にはまだ発表されていないため、卒業生達はこの結果を待つだけの時間に突入する。勉強することもなく、大学進学への手続きもまだできないこの時期、オーストラリア全土の卒業生達は「Schoolies」と呼ばれる期間に突入した。この期間中、勉強も試験もやることがなく真の自由を手に入れた卒業生達は、通例として1週間ほどの旅行をして仲間内でホテルに泊まり酒を飲み遊び呆ける。観光地はこの時期になると今までの抑圧から解放を求めた若者達で溢れかえり、アルコール中毒、喧嘩、ホテルからホテルへの飛び移りなどの問題行動を取り締まるために警察やセキュリティーは厳戒態勢になる。だが、青年達はSchooliesの集合場所として有名な観光地近くに住んでいたため、わざわざこの騒がしい時期に街に出る必要性も感じられなかった。これは青年の周りが真面目で頭の良い連中で構成されていたことも理由の一つであろうが、とにかく青年達はトラブルの蔓延る街に出ることはなく、仲間内の家で集まってポーカーに興じたり釣りに行って時間を過ごした。

 

バイトにも復帰していた。勉強が終わり、進路も分からない今、できることといえば金を稼ぐことだった。年末も近く一時帰国者も多いこの時期、ホールもキッチンもほぼ全てのセクションを担当できる程度には使い勝手の良くなっていた青年は便利に使ってもらえた。バイトは良かった。バイト中は仕事に集中できる。お金がもらえる。人と話して、美味しい賄いが食える。何かをしていることはいいことだ。目の前の仕事をしている間は何も考えなくていい。青年は今までとは違った不安に駆られていた。

 

今年のOP1の輩出数は例年の傾向から考えれば6〜8人であろう。そして青年は学年7位であった。可能性は十分に残しているが、そこから外れる可能性もある。そして青年にはもう一つ、周りの人間には表面化していない不安要素が存在した。それは一番近しく接していた友人ジョッシュである。前の学校から同じように成績のために転校し、同じ理系科目を多く選択し、共に切磋琢磨してきた彼は良き友人であり良きライバルであったが、医学部を目指す彼もまた12年生の前後半からメキメキと頭角を表し始め、トップ15位に名前を連ねる面子の1人になっていた。そんな彼の名前は最後の校内新聞において青年の真下に存在していたが、その実、彼の最終成績は学年上位7位であることが教師側から彼に直接語られたことを、ジョッシュは青年に伝えていた。あの校内新聞にあった「同率順位の存在」は、奇しくも青年と青年の親友の2人だったのだ。

「今年のOP1の輩出が8人だったら、俺たち2人とも圏内だな」

「ああ、でも6人の年もあったから、2人ともダメな可能性だってある」

「できることはやったさ」

「あとは結果を待つだけだからなぁ」

青年とジョッシュはお互いにお互いの不安と期待を吐露し、励まし合った。

 

Chapter 8.5 - To the Summit

OPスコア発表の当日、青年はバイトをしていた。

 

OPスコアの発表は州政府が管轄する専用のウェブポータルに張り出され、学生それぞれに割り振られた個人のIDとパスワードを入力することで自身のスコアが確認できるシステムであった。まだスマートフォンがほとんど普及していない当時、青年には発表時間が過ぎてもこれを確認する術はなく、朝から夜までのシフトをただ悶々としながら過ごしていた。

 

仕事が終わって携帯を確認すると、ジョッシュからの怒涛の着信履歴が残っていた。話の内容はわかりきっている。果たしてそれが吉報なのか悲報なのか、テキストも留守電も残すことをしていなかったため分からない。職場を離れ車に乗り、そこで折り返しの電話をかけてみると、何か複雑な感情を感じ取れる声がスピーカーから返ってきた。

「よぉジョッシュ、結果の話かい?」

まるでついさっきまで面を向かって話していたかのように、当たり前のように会話を進める。

「ああ勿論、そっちはどうだった?」

「今日もバイトで、まだパソコンがないから確認できてない。そっちはどうだった?」

恐る恐る訊いた。最終学年順位同率7位の親友に、言わせていいものか分からない質問を問いかけた。

 

 

「やったぜ!OP1だ!!」

 

 

高らかにジョッシュは言い放った。その声には、彼もまた積み重ねてきた軌跡と努力とプレッシャーがもたらした結果を飾る煌びやかな彩りを感じ取れた。

「そうか!!おめでとう!!」

「そっちも早く確認してみろ!」

「ああ!今すぐ帰宅して確認する!」

手短に電話を切り、車のエンジンをかける。胸は高揚していた。同校の同率7位がOP1を取ったという事実が、青年の心を駆り立てた。目の前には光が差している。隣に立っていた学友はその光を手にしている。次は青年の番である。

 

青年は家に帰ると直ちにノートパソコンを開いて州政府のポータルにアクセスした。自分のIDを入力してから3回確認し、次に一字一句に気を配りながらパスワードを入力した。ノートパソコンの前で指を組み、額の前で祈りを捧げる。もう結果は確定している今、誰に何を願ったところで意味がないことは十分に承知しているが、それでもこのタイミングにおいて最後に縋るのは神という存在であるからして、青年はヒト属ヒト科のヒトであった。

 

カーソルを決定に合わせ、目を瞑った。深呼吸をして精神を統一する。同率7位でOP1を取った奴の興奮にも似た声が頭の中にこだましていた。まだだ、まだだ。青年は心拍数の上昇を必死に抑えようとしていた。この時、この歴史的な一瞬に、どのような言葉を発するべきか。青年の頭は演出を求めていた。

 

 

 

目を瞑ったままカーソルをクリックする。これで結果画面が出るはずだ。

 

 

 

 

額の前で拝み手の形に戻し、そっと、そぉっと目を開ける。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこにはOP2の表記があった。

 

 

 

息を止めていた青年から、小さく長いため息が弱々しく吐き出された。一度目を瞑り、もう一度目を開けるという一連の動作を繰り返してみるが、そこにはOP2の表記があった。強張った背中の筋肉を緩め、青年は椅子の背もたれに全身を託し、天井を向いて溢れる思考をリセットして再度画面を見てみると、そこにはOP2の表記があった。

 

光を目前に捉えた直後の闇は深くて暗かった。期待は絶望を増長させた。高嶺の花を求めて登り続けた崖は、上から垂れてきた蜘蛛の糸は、登れば登るほど落ちた時の衝撃は大きかった。OPスコアは5つのカテゴリの総数で決定する。並ぶ数字は1、2、2、1、2。総合評価としてのOP2。本当に、本当の僅差でOP1を逃したことを無機質に物語っていた。同率7位のOP1とOP2の差はほとんどなかったであろう、それはきっと小数点以下の数字が幾つも連なった結果生じるひどく小さな差であったのだろう。だが、それでも終わってみれば、その小数点の連なりはどこまでもどこまでも続く万里の長城のように青年をOP1の地位から遠ざけた。

 

失敗した。

 

失敗した。失敗した。失敗した。

 

慢心だった。最後の最後に詰めが甘かった。

 

あの時、あの数学の期末試験の、あの小さなミスを見逃さなかったら話は違っていたのであろうか。青年は無駄に悔やんだ。きっとそんな些細な点数を拾っていても変わらなかっただろうと、青年は気楽に考えられない。本当の本当に僅差であったことを知っているからこその、6年間の重みがのしかかっているからこそ、安易に解消できない疑念と後悔が渦巻いた。

 

Chapter 8.6 - Compromise

州政府がOPスコアを公布すると、各大学は一斉に新入生の確保に動き出す。

 

OP2という数字は凄い。OP1という上位互換が存在し、それに手がかかる位置にいながらも僅差でそれを逃した青年にとって、OP2という数字は悲観する数字に見えているが、その実、OP2という数字は凄い。医学部や獣医学部のような競争率の高い学部以外であれば、ほぼ文句なく入学できるほどの好成績である。青年の成績は青年の気持ちとは裏腹に「優秀」であり、各大学側がこれを求めるのがオーストラリアの入学システムだ。

 

OP2の絶望から数日経った頃、まず最初の大学から連絡のメールが入った。青年はまたしても拝み手で目を瞑ったままそのメールを開き、祝福のテンプレ序文を読み飛ばして本題に進んでいく。その大学が青年にオファーしてきたのは環境エネルギー関係の工学部であった。第二志望として、滑り止めとして書いていた学部へのオファーである。このオファーメールは同時に、同大学の獣医学部に落ちたという通知でもあった。

 

数日後、今度は2つの大学から動物学部のオファーが入った。やはりこちらも獣医学部に落選したという通知と同義である。動物学科は獣医学科に似て動物について学ぶ学部ではあるが、卒業後の就職先が検討つかない謎の学部というイメージでしかない。両大学とも動物学科から獣医学科への編入の道は残されるが、かなり狭き門であることは言うまでもなかった。

 

田舎にある2つの獣医大には滑り止めの設定をしていなかったため、オファーは一向に来なかった。しかし地域出身者優遇の傾向が強いこれらの大学で、他地域に住むOP1を取れていない青年にオファーが来る可能性はほぼ残されていないであろう。OP2という数字は凄い。凄いのだが、それでも獣医学科の壁を越えるには、経験の少なさも相まって難しいことを改めて痛感した。

 

時間は刻々と過ぎていった。大学進学にはどこを選んだとしても引越しが控えている。モタモタしている余裕はなかったが、しかし良い返事が貰えないまま一日、また一日と、時間だけが減っていき、代わりに不安は指数関数的に増え続けた。7つの獣医大のうち、2つは可能性が極めて低く、3つはすでに可能性が無くなっていた。

 

次の大学からのメールが届いたのは結構遅れてからであった。残っている獣医学科で、一番可能性が残っているのはこの大学だ。縋る思いで開いたメールには、第二志望の歯科医学科のオファーが綴られていた。歯科医になることもまた狭き門である。その歯科医学科に無条件オファーが来たのだ。青年は素直に喜べない。このオファーの意味するところは、およそ一番可能性があると感じていた獣医学科に落ちたことを意味していた。

 

各オファーにはオファーを受けるかどうかの返事をする期限が設けられている。オファーを蹴って返事をしなければその空枠には次の希望者へのオファーが出されるため、期限はそこそこ短いものだった。ここまでの各大学のオファーの流れで、青年は自分が獣医学科に入れないことを察した。それを察して、それを認めた。

「動物が好きな歯科医なんてどうだろう」

漠然と自分の未来を想像してみた。歯科医の平均収入は良い。しっかりと勉強し、自信をキャリアの軌道に乗せれば安泰である。ある程度の余裕を持った生活を目指し、道楽として動物を愛でる暮らしもできるのではなかろうか。青年は自分自身に言い聞かせた。

 

翌日、青年は電車に揺られ留学を補佐してくれるエージェントへと赴いた。大学からのオファーを受け、学科の席を確保するためである。まだ2大学からの返事はないが、ここまで遅れているのに第一志望が通るとは思えない、これ以上結論を引き延ばしていては引っ越しにも支障をきたす。動物好きなエンジニア、動物好きな歯科医、そういう立ち位置で十分ではないか。英語が全く喋れない状態でこの国に渡ってきて、こんなところまで登りつめたのだから、それでも十二分な功績ではないか。青年は自分の気持ちを掌握していた。

 

エージェントで各種の手続きを行い、駅近くの日本食屋で唐揚げ定食を食べた。白米のおかわりが自由という気前の良い定食屋で、唐揚げ6個に対して米を茶碗に5杯食べた。普段から食欲は旺盛であったが、この日は暴食だったかもしれない。

 

帰りの電車の中、青年は考えた。本当にこれで良いのだろうか。歯科医学科の席は確保したが、自分はこれに本当に納得できるだろうか。閑散とした電車の中で、本もなければスマホもない電車の中で青年は熟考した。うーん、良いのだろうか。これは本当にやりたいことだろうか。やりたいこととはなんだ。理系の道に進み、技術職で、給与も良いとされている歯科医学科に、理性はこれで良いのだと言い続けていた。だが、それでも未だ、青年は熟考を重ねている。これで良いのだろうか。これが正解の道であろうか。何かが引っかかっていた。

 

一度は掌握していた心は再度ざわついていた。そのざわめきはやがて全身に広がり、青年は一つの結論を出した。

「やっぱり簡単には諦められないかもしれない」

帰宅した青年は、すぐに母に電話をかけていた。当時の母は日本に一時帰国していたためだ。

「歯科医学でも動物学でも良い。まずは大学に行って単位を取りつつ上を目指す。その上で、もし可能であれば獣医学科の編入を狙うかもしれない」

心に身体を掌握された青年の口から、諦めていない旨を伝えた。もしかすると遠回りになるかもしれないし、数年長く大学に行く可能性だってあるかもしれない。だが、やれるところまでやってみたいと意思表示をした。

 

口に出したことで意識はハッキリした。心に掌握されていた理性もまた、それが正しい選択であると考えを改めた。見上げる先には今よりも更に高い崖がそびえ立っている。だがどうということはない、崖登りには慣れている。今度はより集中し、一時の慢心も許さず挑むだけだ。そうとなれば勉強をしなければならない。編入のルートはどうなっているのか。どういう学部が有利で、どのような単位が必要なのか。前を見据えた青年はノートパソコンを開いて検索を始めた。

 

 

ピコンッ!と軽快なメールの受信音が鳴った。今朝の手続きに関するものであった。

 

 

そのメールのすぐ下には数通の未開封のメールがあった。この頃は様々な大学からある種でスパムのように勧誘のメールが来るので受信箱がすぐに埋まる。淡々と未読メールをチェックしては次の未読メールに移る。そのうちの一つは、ある大学からのオファーのメールであり、こには似通った大学の学部オファーを謳う序文と、理学部へのオファーが綴られていた。流し読みを終えて次の未読メールを確認する。留学エージェントから、歯科医学科への入学に向けた必要書類の要求が事細かに書かれている。

 

エージェントからのメールを半分読んだところで、ふと青年の脳の片隅が違和感を訴えた。

 

理学部?

Bachelor of Science...?

 

どこの大学の希望にも、単純な理学部に応募した覚えはない。滑り止めの多くは工学科であったり医科系統であった。心は再びざわついた。先程読み流したメールを再度確認する。

 

 

 

 

そこにはやはり理学部へのオファーが記されていた。

 

 

 

 

 

 

Bachelor of Science (veterinary bioscience)。

その理学部は、獣医学科DVMへと繋がる理学部である。

 

 

 

交感神経の興奮が全身に広がる感覚と同時に青年は言葉にならない声をあげ、立ち上がっていた。その声は誰もいない家の中で少しばかり反響するとどこまでも広く抜ける青空に消えてゆき、高い高い木の上に腰かけるツチスドリだけがその喜びに応えるような嬌声をあげた。

 

 

 

「予後不良」のコミュニケーション技術

 

 

こんにちは、予後の言い方について英単語を並べると『Prognosis is poor』になるのですが、実際の臨床現場だともう少し砕けた?歪曲的な?表現になるのでしょうか。

オーナーに予後が悪いという伝え方を教えていただきたいです!

 

中の人なんていないこの手動BOTの方にこのような質問を頂きました。

 

 

『予後』の種類自体は前に触れているので過去ツイぶら下げます。

 

 

上記のツイートで紹介しているのはあくまでも「予後の種類」であって、確かに臨床現場で働いていればこのような表現が病理の研究室からのレポートで届いたり教科書や論文で読む機会もあるため「臨床現場で使う英語」ではあるのです。

 

が、今回はそこから一歩踏み込んで、実際にオーナーさんへの伝え方のテクニック。BOTの運営体勢としましては、やはりアカデミックな語彙を増やすというより、実際の現場で使えるコミュニケーション術ってところも掘り下げたいですよね。しかしこれはツイートで書ききれるような内容ではないので、ここに英語BOTの中の人から依頼される形で自分がブログを書きなぐり始めました。

 

 

 

Breaking Bad News

医学生は大学での勉強中に倫理やコミュニケーション術についても学びますが、その中の一つ、「Delivering bad news(悪い知らせの伝え方)」という会話術は、一つの技術カテゴリとして存在するくらい、臨床獣医師にとっては伝える際に細心の注意を払う必要がある大事なものです。

 

全ての年齢のイヌの3匹に1匹が、10歳以上であれば実に半数以上が何かしらの腫瘍を発症し、一番の死因となりうる昨今 [1]、予後不良に関して獣医師がオーナーに話す機会はとても多く、正しい技術が必要とされます。また、悪い知らせはオーナーだけではなく伝える獣医師側にとっても精神的な苦痛や責任感への負担が大きいです。

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悪い知らせの告知に『技術』は必要か

例えば獣医師自身が悪い知らせを伝えることに不安や苦痛を感じる場合、予後不良などの望ましくない情報についての議論を避けたり、保証のない楽観論をオーナーに話してしまうリスクがあります。

 

インフォームドコンセントの観点からも、獣医師側はオーナーが望む限り正しい情報をしっかりと伝える義務があります。事実告知に際したオーナー側の感受性に配慮しながら行うことで、誤認識を避けつつ、求められる量の知識と情報を与え、意思決定をスムーズに行えることは非常に大事です。

 

ここで間違えると後々で「聞いてないぞ!」などのトラブルが(仮に伝えていたとしても動揺していて理解していなかったケース含め)起こることもあり得るので、オーナーのために、そして自分自身の精神的・法的な保護のためにも、正しい知識と技術を身につけておくのは非常に大事。

 

反面教師な例から考える

じゃあ実際にどういう技術が必要なんだ、と考えるときに、まずは反面教師的なコミュニケーションから逆算的に考えてみると分かり易かったりします。

 

例えば同僚獣医師が突然、

 

「あ、もしもし〇〇ちゃんのオーナーさん?病理検査の結果帰ってきましたけどやはり骨肉腫でした。このまま何も治療しないと大体2ヶ月で亡くなっちゃう病気ですが、断脚手術してからシスプラスチンとドキソルビシンを使った抗がん剤治療を行えば3割くらいの子は2年以上生きれますんで、まずは手術しましょう。」

 

なんて言ってたら、もう中々問題なわけですよ。これがつまり、技術の無い伝え方です。じゃあ上記は一体何が問題だと感じるんだろうな、というところから考えていくと、反面教師として上手なコミュニケーション方法が見えてきます。

 

それでは反面教師を悪い例としたまま、Breaking bad newsの正しいやり方を綺麗にまとめた人間医療のSPIKESプロトコルを見ていきます。

 

SPIKES Protocol

SPIKESとは、人間医療において「悪い知らせの告知」の実施に必要な段階的なステップを上手にまとめたプロトコルです [2]。人間医療では主にがん患者など、悪い知らせを告知する対象と直接話す世界です。獣医療現場では告知対象は予後不良の動物のオーナーさんであるため、状況は少しばかり違いますが、プロトコル自体は獣医療現場にも綺麗に流用できるものなので使い勝手は非常に良いです。

 

SPIKESプロトコルは悪い知らせの告知を6段階にわけて定義・説明しています。この6段階に沿うような形で告知を行うように注力すると、予後不良の告知はとてもスムーズに、そしてオーナーさんの負担も最小になります。勿論、時と場合によっては6つ全ての段階を踏めなかったり踏む必要が無い状況もありますが。

 

以下、一つずつ見ていくと共に、臨床英語でどういう表現があるか等も随時載せていきます。

 

SETTING up the interview (面談の設定)

第一段階。まずは面談の設定をします。設定云々の前に、獣医師側はまずこれから起きるであろう精神的負荷の大きい会話への心の準備と、何をどういうタイミングで言うかという情報告知のリハーサルを心の中だけでも行いましょう。

 

できる限り、電話越しでの告知は避けて実際にオーナーを病院に招いてお話することが望ましいです。オーナーの反応を見て、アイコンタクトを取りつつの会話の方が圧倒的にスムーズに話が進められます。これもまた実際の獣医療現場では結構難しいことも多いのですが、招き入れる際には時間をたっぷりと取れる状況で、プライバシーを守れる環境(診察時間外の診察室など)が望ましいです。

 

悪い告知をする際、伝える側である獣医師が不安になり責任を感じてしまうのは当たり前であり普通であると反芻し、そして認識することが大事。動物が好きな人間だもの。ただ、これから自分が伝えることはその動物と家族の今後について考える上でとても大事になる意思決定に繋がるものであり、結果的にはそのペットと家族のためになることであると理解して挑みます。

 

要点:

  • プライバシーを尊重せよ。診察時間外の診察室などに招いて面談を設定せよ
    • "Let's arrange for some time to discuss about 〇〇 (〇〇ちゃんについてお話したいので時間を作りましょう)"などと伝え病院に招く
    • "Come into the consult room and I will go through the results (結果をお話したいので診察室へどうぞ)"などと伝え、プライバシーの守れる診察室などに誘導する。
  • 耳は多い方が良い。関係の深い家族や友人を巻き込むように言え
    • "The whole family members are welcome to come (是非ご家族の皆さんもご一緒にお越し下さい)"。パッシブに家族・友人を誘う手段。多人数で押し寄せて良いのだと予め伝えておく手段。
    • "Would you like to call your family member? (家族のどなたかにお電話かけますか?)"。アクティブに家族・友人に電話をかけたいか聞く手段。既に一人で来ていた時などはこれ。
  • 物理的な障害を排除し、座って、急いでいないことをアピールせよ
    • 忙しくない時間を選んで面接を設定する。悪い知らせの告知中に扉バンバンとかは絶対にご法度なので他のスタッフに対応させるよう準備しておく。
    • 椅子を置き、お互いに座る。座ることはオーナーの安堵に繋がるほか、獣医師側が座るのは時間に追われていないアピールになる。
    • できれば机を挟まずにお互い座って話すことで心の壁をできうる限り排除する。人によってはある程度のスキンシップなども大事。
    • ティッシュの用意は忘れずに。

 

② Assessing the client's PERCEPTION (オーナーの認識を評価する)

第二段階と第三段階は臨床家がオーナーと面談する際の原則である「伝える前に尋ねよ」を実施する盤面です。問診と同じようにOpen-ended questions (自由回答式)の質問を使ってオーナーに喋らせます。

 

第二段階では、オーナー側が患畜の医学的状態についてどこまで理解しているかを見極めます。つまり、これから医学的所見について議論する前に、そもそもオーナーの医学的知識の基礎はどのレベルに達しているかを確かめます。個人によっては過去に同じ病気を持っていた家族やペットと関わっていたり、他の獣医師に相談していて断片的な知識を持っていることもあるため、その見極めを最初に行っておくことは大事です。臨床獣医師あるあるですが、場合によってはオーナーさんが人間医療の医者だったりするので…。

 

この段階で誤った情報や理解をしていた場合(例:老犬なので麻酔に耐えられない、抗がん剤治療は負担が大きすぎる等)は本題に入る前に訂正しておくと、本題がスムーズに話せます。また、オーナーの理解度を把握しておくことで、オーナーが理解できる範囲の情報を的確に提供する手がかりにもなります。

 

要点:

  • オーナーの医学的知識の基礎を探れ
    • "What have you been told about 〇〇’s chest radiograph? (〇〇ちゃんの胸のレントゲンについてどこまで聞きました?)” など、オーナー自身に知識と理解を語らせる。特に複数の獣医師が関わっている場合に大事。
    • "What other questions do you have?" "Is there anything else you would like to
      discuss?" など、自由回答式の質問を投げかけてオーナーの考えや心配事を引き出す。

 

③ Obtaining the client's INVITATION (オーナーの求めを確認する)

第三段階は第二段階と繋がっているため正確には段階ではないです。

 

大半のオーナーは自身のペットに関する診断や予後や疾患の詳細を知りたいと考えますが、中にはそういった情報を望まない人もいるので、まずオーナーがどこまでの情報を求めているかを本題に入る前に把握することは大事です。仮にオーナーが、例えば心の準備ができていない状態で詳細を聞きたくない場合、時を改めたり、家族・友人に話すといった選択肢を与えます。

 

第二段階で得た「オーナーの医学的知識の基礎」において、オーナー側に欠けていてオーナー側が知りたがっている情報があるかどうかの判断が大事。これは例えば臨床獣医師だったら頷いてくれると思うんですが、治療に対する金銭面の不安などは結構初期の段階からオーナーが口にしてくれる場合が多く、重点を置くべき情報であると判断できます。

 

ちなみに、最初は知りたがっていたけど途中からもう聞きたくない!みたいに、話が進むと求める情報量が変化したりするので注意が必要。

 

要点:

  • オーナーの求める情報を探れ
    • "Would you like me to give you all the information or sketch out the results and spend more time discussing the treatment plan? (詳細を全てお話しますか?結果は概要のみで、治療計画について詳細にお話しますか?)” などと聞いて、どのような情報を求めているか探る。
    • "What other questions do you have?" "Is there anything else you would like to
      discuss?" など、自由回答式の質問を投げかけてオーナーの考えや心配事を引き出す。
  • オーナーの求める情報量は随時変わることがあるので注意せよ
    • 話が進むにつれて情報量に圧倒されたり感情的になり情報処理ができなくなる場合がある。常に注意を配り、臨機応変に対応すること。

 

④ Giving KNOWLEDGE to the client (オーナーに知識を提供する)

第四段階。いよいよ本題である悪い知らせの告知をします。

 

まず初めに、「今から悪い知らせを告知しますよぉー…」といった旨の一言を発することが大事です。これをWarning shots (直訳すると警告射撃) などと表現しますが、要するにいきなり精神的にショックなことを言われるよりも、これからショッキングなことを言いますよ、と先に言われていた方が、告知後に起こる精神的ショックが和らぐのです。

 

次に本題である悪い知らせを告知し、その詳細をオーナーの医学的知識、求める情報量に基づいて伝えます。この際、オーナーに理解できるレベルの語彙や知識を提供する必要があります。専門用語は避けましょう(例:『Biopsy (生検)』ではなく『Tissue sample (組織サンプル)』)。

 

情報を提供する際には細かく分割して、オーナー側が正確に理解しているかを定期的に確認します。これはChunk and Check (塊 & 確認)というコミュニケーション技術です。一気に、そして一方的に情報を出しても精神的に不安定な状態にあるオーナーは理解できません。嚙み砕いて、ゆっくりと分割して情報を出し、それぞれの情報を理解しているか確認しながら話していくと相手の理解度が上がり、誤認識や後のトラブルを防げます。

 

要点:

  • 悪い知らせの告知前に警告の一言を発して心構えをさせろ
    • "Unfortunately... (残念ですが…)"と言って大きく間を取る作戦。
    • "I have a bad news for you (悪い知らせがあります)"と先に言う作戦。
  • オーナーに理解できる語彙と知識を提供せよ
    • ②で把握している情報を元に伝えること。
    • 専門用語は避けること。
  • 情報は細かく分割して提供し、定期的に理解しているか確認せよ
    • "What questions do you have so far? (ここまでの内容で解らない部分はどこですか?)" などと定期的に訊く。Yes/Noで答えられない自由回答式の質問がここでも有効。
    • "What part of the plan is most difficult? (このプランのどの部分が厳しいですか?)"などの質問も有効。話について来ていなければ答えられないため、理解度が測れる

 

⑤ Addressing the client's EMOTIONS (オーナーの感情に共感を込め対応する)

第五段階。オーナーの抱く感情に対応することは悪い知らせの告知を行ううえでも特に難しい課題です。告知を受けた時のオーナーは、沈黙、疑念、涙、否定、怒りなど、様々な形で獣医師に接してくるため対応力が非常に大事です。

 

感情が溢れている最中はしっかりと情報を理解できないし判断を下すこともできないので、基本的にまずはオーナーの感情に共感を込めて対応し、落ち着くのを待つことになります。オーナーさんの立場になって、感情を想像して共感を込めて対処しましょう。

 

①で家族や友人を巻き込むことを推奨するのは、耳を増やして④での理解度を増すことも目的ですが、個人的にはこの⑤において感情に共感できる人を増やしてあげることの意義が大きいですね。

 

人によっては沈黙を貫いたりして感情がハッキリ伝わらない場合もあります。こういうときは共感を込める前にまず探索的な質問を用いて相手の出方を伺う、などといった技を使う必要もあります。難しい。

 

要点:

  • オーナーの感情に共感を込めて対応し、感情が落ち着くのを待て
    • "I can only imagine how hard this is... 〇〇 has been part of your family for so long"
    • "I can see how upsetting this is for you... I was also hoping for different results"
  • 包括語 (inclusion language)を使って孤独を与えず一体感を強調せよ
    • Let's、we、our、us、togetherなどの一体感の生まれる包括語を使う
    • "We will work together for 〇〇"

 

⑥ Providing a SUMMARY (方針とまとめ)

第六段階。オーナーの感情に対応後、適切な形で知識と情報を提供したあとは今後の方針についてお互いの考えを意見交換し、治療方針を決定します。オーナーの希望する大まかな方針は③の『オーナーの求めを確認』で把握できていると話がスムーズに展開できます。

 

方針決定の段階になったら、ここまでの話を総括したまとめをオーナーと再度確認することが大事です。未来のプランが明確であればあるほど不安は解消されるため、オーナーの理解を何度も確認することでできる限り解らない部分を無くしてあげます。

 

要点:

  • これまでの話を総括してまとめ、オーナーの理解と意向を再度確認せよ
    • "I recommend these tests and this treatment for 〇〇’s oral melanoma, but there are other options. What questions do you have?”などと、オーナーの意向を汲みつつ明確な治療方針などを示しつつ、再度自由回答式の質問を投げかけて出方を伺う。

 

 

 

振り返ってみる

悪例の問題点を洗う

6段階のプロトコルをおおよそ理解したうえで、先ほどの「悪い例」を見てみます。

 

「あ、もしもし〇〇ちゃんのオーナーさん?病理検査の結果帰ってきましたけどやはり骨肉腫でした。このまま何も治療しないと大体2ヶ月で亡くなっちゃう病気ですが、断脚手術してからシスプラスチンとドキソルビシンを使った抗がん剤治療を行えば3割くらいの子は2年以上生きれますんで、まずは手術しましょう。」

 

最初に書いたこの反面教師なコミュニケーション、どこが問題かを理論的に考察して列挙してみましょう。

 

  • ① SETTING (面談の設定) 
    • 電話越しであり対面によるコミュニケーションを取ろうとしていない
    • プライバシーなどに配慮していない
    • 家族や友人を招いていない
  • ② PERCEPTION (認識の確認)
    • オーナーに自発的に喋らせる機会を与えていない
    • オーナーの医学的知識がどこまであるのか把握していない
  • ③ INVITATION (求めの確認)
    • オーナーに自発的に喋らせる機会を与えていない
    • オーナーが知りたくない数値などを伝えている可能性がある
    • オーナーが知りたい情報を伝えていない可能性がある
  • ④ KNOWLEDGE (知識の提供)
    • 悪い知らせの前に警告をしていない
    • 専門用語を多用し、オーナーの理解できる語彙にしていない
    • 情報をまとめて提供しており、分割していない
    • オーナーの理解度を確認していない
  • ⑤ EMOTIONS (感情への共感)
    • オーナーの感情への共感が見られない
    • オーナーの感情が落ち着く時間を与えていない
    • 包括語を使わずオーナーを孤立させている
  • ⑥ SUMMARY (まとめ)
    • オーナーの理解度を確認していない
    • オーナーの意向を確認していない

 

このように、理論的に何がマズいのかが説明できるようになりました。そしてこれらを改善すると「悪い知らせの告知」の質がとても向上します。

 

流れでまとめてみる

  • 【面会の設定】
  • "Let's arrange for some time to discuss about 〇〇"
    • 〇〇ちゃんについてお話したいので時間を作りましょう
  • "The whole family members are welcome to come together"
    •  是非ご家族の皆さんもご一緒にお越し下さい
  • "Come into the consult room and I will go through the results"
    •  結果をお話したいので診察室へどうぞ

 

  • 【認識と求めの確認】
  • "So before we get to the results... what have you been told about 〇〇’s radiograph?”
    • さて本題に入る前に…〇〇ちゃんのレントゲンについてどこまで聞きましたか?
  • "What other questions do you have?"
    • 他に何か不明な点はございますか?
  • "Would you like me to give you all the information or sketch out the results and spend more time discussing the treatment plan?
    • 詳細を全てお話しますか?それとも結果は概要のみにして、治療計画について詳細にお話しますか?
  • "Is there anything else you would like to discuss?"
    • 他に何か聞きたいことはありますか?

 

  • "Unfortunately... I have a bad news for you and 〇〇"
    • 残念ですが…貴方と〇〇ちゃんにとって悪い知らせがあります。
  • 【悪い知らせの告知】
  • "I can see how upsetting this is for you... I was also hoping for different results"
    • とても辛いことと思います…私も違う結果であってほしかったです…
  • "Would you like to call your family member?"
    •  家族のどなたかにお電話かけますか?
  • 【説明】
  • "What questions do you have so far?"
    • ここまでの内容で解らない部分はどこですか?
  • 【説明】
  • ”Which part is unclear to you regarding the above options?”
    • この選択肢の中でどれが分かりにくいですか?
  • "Let's work together for 〇〇"
    • 〇〇ちゃんのために、共に頑張りましょう
  • 【治療方針】
  • "What part of this treatment plan is most difficult?"
    • この治療プランだと、どの部分が厳しいですか?

 

  • 【まとめ】
  • "I recommend these tests and this treatment for 〇〇’s problem, but there are other options. What do you think?”
    • 私からはこれらの検査と治療をお勧めしますが、他にも様々な選択肢はあります。どうお考えですか?

 

 

 

これくらいスムーズにできると最高にいいよね、っていうお話。

いやー10000字の回答になってしまった。失敬失敬。

 

 

 

twitter.com

 

 

 

参考文章

  1. Fleming JM, Creevy KE and Promislow DE. (2011). Mortality in North American dogs
    from 1984 to 2004: an investigation into age-, size-, and breed-related
    causes of death. J Vet Intern Med. 25(2): 187-198.
  2. Baile WF, Buckman R, Lenzi R, Glober G, Beale EA and Kudelka AP. (2000). SPIKES—A six-step protocol for delivering bad news: application to the patient with cancer. Oncologist. 5(4): 302-311.

 

 

 

僕と英語と、移住と学校。⑦

 

 

Chapter 7.1 ‐ Face forward

 

「おい・・・獣医学部が見えてきたぞ・・・」

 

青年の息は上がっていた。息切れは興奮から来るものなのか、ここまでの長く過酷な道のり故か、青年にとってはどうでもいいことだった。ただ一つ、そこには半年前に学年のトップ50%以内にも入れていなかった留学生が、学年トップ10%までいきなり上り詰めたという事実が校内新聞に確かに綴られている。

 

目標としていたOP4という数字は、現状の維持で文句なく獲得できる。しかし状況としては11年生の1学期で学年12位である。あと1.5年間、この順位を維持すれば、という話である。

 

果たしてここから1.5年間、この順位を維持できるのであろうか、ではない。

果たしてここから1.5年間で、この順位をどこまで引き上げられるか、という別次元の戦いに、青年はいきなり参戦することになったのだ。

 

無論、海洋生物学を狙うのであれば、現状の維持か、ある程度順位を落とすようなことがあっても問題はないだろう。だがこの半年でこの伸び率である、OP1を目指して更なる高みを狙うのは至極真っ当な野望であるし、獣医師という肩書きに憧れることもまた至極当然であった。

 

それまで身体に重くのしかかっていた潮流は突如として消え、水中で足掻いていた両足は突如として地に着いた。ハッと気づいて見上げた崖の先には、高嶺の花が見える。青年の視線は自然と上を向いていた。

 

 

Chapter 7.2 - Swap over

11年生の2学期が始まると、学生達を取り巻く空気は更に変化を見せる。

大きな要因はやはり1学期最後に公表された校内新聞における学年トップ15人の名前であろう。理由はここに記載された面子が10年生の頃にトップを占めていた『常連』とかなり変化していたためである。

 

10年生までの『学年トップ達』は全ての科目において全体的に勉強ができる連中が占めており、9~10年生の期間で上位グループの名前はほぼ入れ替わっていなかったのである。これは10年生までの学業は歴史から科学から数学語学まで、様々な科目の点数が全て評価に影響していたからだ。

しかし11年生の1学期に張り出された名前は、それまで数年に渡りほぼ不動であった学年トップ達の名前の半分以上が塗り替えられた。全員が選択科目になった結果、『平均的に良い得点を取っていた学生』は軒並み、『特定の得意科目ではより高得点を取れる学生』に取って代わられたのだと青年は理解した。

 

「いいかい、社会科の勉強が苦手だから、社会科の成績が取れないから、だからどうした?君はちゃんと勉強しているし宿題だってやっているのを私はちゃんと知っている。それに、君は数学の成績はトップレベルだったそうじゃないか。理科の勉強も好きだろう?

ならばそれでいいんだ。人間、全てが得意な人なんていないんだ。

誰にだって得意なものがあれば、不得意なものだってある。それが当たり前だし、その得意なことをどれだけ活かせるのか、これが大事なんだ。数学や理科の勉強が得意で、かわりに社会科の勉強が苦手ならそれでいいんだ。

むしろ、私はどんな勉強でも同じような成績を取れる生徒より、そっちのほうが素晴らしいと思っている。得意な事のかわりに不得意な事を伸ばそうとするのは、今は考えなくていいんだ。全てにおいて平均になる必要なんかないからね、それでは面白みのないただの人形みたいだ。まだ子供なのだから、得意なこと、興味のあること、やりたいことだけに集中すればいい。」

9年生の頃、社会科のテストで赤点を取った際、齢70近い教師に言われた言葉を思い出していた。彼の言葉の真意を理解した気がした。

 

 

11年生2学期の教室においてもこの事実が浮き彫りになった今、それまで『常連』に名前を連ねていた生徒には焦りの色が、そして周りにいる『勉強できる奴に近づきたい』生徒には動きの変化が現れたように感じる。そう感じるのは青年が今までずっと持てなかった自信を得たからであろうか。もしかすると空気感が本当に変わったのは周りではなく青年自身であったのかもしれない。

 

勉強方法は特に変えなかった。青年が徒党を組んで勉学に励む面子は、1学期の頃から皆が努力家であり、互いが互いを高め合えると感じられるメンバーであった。

数学の授業では事前に勉強した知識を掘り起こし深く刻みつける作業。物理は暗記よりも法則の理解を深める。化学の授業は相変わらず板書の速度について行くことに専念して、英語の授業は安定のC評価を狙い、日本語の授業は…数学の宿題を早々に消化する時間であった。

家では基本勉強時間の3時間を守り、週末にはバイトも継続した。

 

前回の期末試験では化学が伸び切らなかったため、化学を強化するために近隣の公立校で化学の教師をしている男性を見つけ出し家庭教師としても迎えた。最初、彼は化学の基礎的な部分を懇切丁寧に教えてくれて青年の知識も強化されていったが、2学期も後半になるにつれて効率が悪くなっていった。何が問題なのかと問うと家庭教師は言う。

「内容が公立高校のレベルを超えている、これは大学1年目の内容だ。私では教えきれないかもしれない」

音を上げ始めた家庭教師は、半ば辞退するような形で免許皆伝を宣言した。鬼のような速度で板書を書いては消していくあの化学教師は、どうやら大学の勉強速度だけではなく、大学の内容まで突っ込んでいっているらしい。そんな化学教師は11月になる頃には教師をする傍らで博士号を取得し、正式に呼称が「先生(ミスター)」から「博士(ドクター)」に替わっていた。

 

各科目における採点は大まかに小テスト、中間テスト、課題、そして期末テストの4種類から成る。青年はこの4種の中でも特に課題には重点をおいて取り組んだ。慣れてきたとはいっても第二言語で戦う身であることに変わりない青年にとって、各テストはどうあがいてもぶっつけ本番以外に無いが、課題に関しては文章を練り、校正し、磨き上げる時間があるものであり、逆に言えばこれが可能な時点で第二言語であるという部分で甘えられないシビアさが存在した。その課題が化学であっても物理学であっても数学であっても、提出日の1週間前には必ず仕上げ、文章と表現の修正・校正を念入りにかける必要があった。ESLの先生は既にこうした作業に無視を決め込んでくるため、家庭教師はやがて「勉強を教える人」から「文章校正をする人」となっていった。

 

勉強が、ビジョンが変化しつつあった。

 

Chapter 7.3 - Road to the Top

高校という環境における時間の流れはとても早い。毎日を我武者羅に楽しみ、悩み、喜び、悔やみ、勉強している間に、校内にはジャカランダの花が咲き乱れ、最終授業を終えた上級生はその大部分が早々と校内から姿を消し、期末試験前の勉強会や会議のために散発的に登校する姿しか見なくなった。

 

12年生の消えた高校は、青年達11年生の天下となった。これは比喩でも何でもなく、学校における最上級生たちには様々な特権がある。校内中央に位置するエアコン付きラウンジの使用権、ラウンジ付属の冷蔵庫と電子レンジの使用権、缶ジュース割引購入権、自家用車通学権と校内駐車場使用権などがあり、どれも校内生活の質の向上にとても貢献してくれる。青年もまた、この時期になると貯めたバイト代で中古の車を購入し、一人で車通学をするようになっていた。

 

天下を取った青年達に対し、学校の教員達の態度もまた変化する。学校の最高学年へと歩を進める我々に対する変化とはつまり、集大成を迎えさせるための準備期間もいよいよ大詰めとなってきているからである。今まで割かれていた「最終成績を上げ、学校に箔をつけたい」といったリソースが、残りは卒業を迎えるだけの現12年生から、これから来期の成績を担う青年達に向けられ始めたのだ。既に気合の入っている青年達の周りにはそこまでの影響は感じられなかったが、まだ勉学に完全に向き合えていない連中への発破が増していることは遠巻きからも感じられた。

 

刻一刻と校内の雰囲気が変化していく中で、2学期の期末試験は行われた。上位組の入れ替えが顕著に見られた後の期末試験は、それまで動かなかった上位に食い込む希望を全ての生徒に与え、それと同時に、油断をすればすぐに墜落することを上位勢に知らしめていた。勉強に打ち込んできた生徒達の目には今まで以上のストレスと闘志が映っている。青年もまた、唐突に現れた高嶺の花を目指し、上へ上へと視線を向けていた。

 

青年が一番の弱点と踏んだのは化学である。前回の試験では長文問題の2問を取りこぼす失態を犯してしまっていたこの試験は、どう考えても英語を除いた5科目の中で一番点数が低かった。上位12位からさらに上を目指す身となった青年は、得意科目の高得点を維持したまま、苦手科目の成績を押し上げる必要がある。日本語と数Bはほぼ間違いなく100%が取れるため、勉強のリソースの多くは数C、物理、そして何よりも化学へ向けられた。時間配分も大きな敗因の一つであったため、数少ない3年分の過去問は2時間の制限時間をしっかりと守った状態での模擬試験を行い時間配分とストレスマネジメントを行なった。実際の試験においてはESL権限の20分を余計にもらえるので、あえて120分の正規時間制限という過負荷をかけることで自信をつけた。

 

1週間に及ぶ期末試験はある意味で孤独との戦いでもある。期末試験前の1週間は自習期間、その後に1週間に渡り科目ごとに割り振られた日程での期末試験が行われるが、この期間中は学校に行くこともなく友人達と顔を合わせる機会もない。生徒によっては図書館で勉強したり友人と勉強会を開いたりしていたようだが、元々青年は個人で勉強してきていたので移動時間の無駄なども省ける自宅での自習が性に合っていた。久しぶりに級友達と顔を合わせたのは期末試験が行われる教室の前であったが、そこにあった顔は皆それぞれが十人十色で、希望と不安と諦めと眠気とストレスと投げやり感が織り混ざっている形容し難い顔つきが並んでいた。そんな中にあった青年の顔もまた形容し難いものであったのだろうか。

 

踏み入れた教室には期末試験の答案用紙が鎮座していた。青年は指定された席に歩み寄る。これまで足掻き踠いていた、地に足がつかない机はそこにはなかった。

 

Chapter 7.4 - Flourish

11月のオーストラリアの日差しは、これから本格的な夏を控えてその本領を発揮できる時をまだかまだかと待ち侘びすぎて空回りしているかの如くテンションの高い紫外線を放っていた。そんな太陽にアテられたかのように試験後の生徒達の顔もまた明るい。どこまでも競い合い、どこまでも不安になり、どこまでも試験に打ち込んだ生徒達から漏れる声と表情は、それが本人にとって如何なる出来であったとしてもまずは安堵と解放に満たされていた。

 

試験結果の発表は教員側の採点速度に応じて逐一発表された。まず数BがA+、次に英語がC+、物理A-の後には化学のB+が続き、安定の日本語A+を経て最後に数CのA-が続いた。科目によって難易度は異なるのでABC評価にはあまり意味がない。必要なのは『平均値が低い、難しい科目において、どれほど突出した高得点を出しているか』である。前回苦しんだ化学は今回もA評価に達しない点数ではあったものの、クラス全体の平均獲得点数が少ない中での突出したB+評価であればむしろ簡単な科目で取るA評価よりも補正がかかって順位を上げられることを青年は学んでいる。

 

夏休みを目前にした学期末最終日、そわそわと期待と不安を募らせた青年のもとに一枚の校内新聞が手渡された。新聞を配る教師の顔には笑顔こそあるものの特別欠けてくれる言葉はなく、ある意味ですごく機械的に手渡された校内新聞に、自信に満ちた青年もまた機械的に目を通す。

 

自信は現実のものとなる。青年の名前は確かに上位15名の中に存在した。少しの安堵と共に、大きな期待感が込み上げる。名前は欄の中央部分に位置していた。連なる級友たちの名前を、上からゆっくり確実に数えていく。

 

1、2、3、4、5、6、7…

 

青年の名前は8番目に位置していた。

 

上位8位。

12位から8位まで押し上げたこの事実に青年は震えた。この学校の過去の成績とOP1輩出率を、高嶺の花を目の当たりにした青年は十分に把握している。この学校は毎年平均して6〜8人程度のOP1を輩出している。上位8人の中に青年の名前が存在するこの状況は、本格的に獣医学部が現実的なものになりつつあることの証明であった。

 

日々の英会話に苦しんだ日々があった。

教科書を1ページ読み進めるのに1昼夜かかる日々があった。

学年の半数以下の成績でもがいていた日々があった。

 

過去に夢見た非現実は、遠く彼方に見た憧れは、今、青年の目の前で現実味を帯びている。

 

 

Chapter 7.5 - Against the Prodigies

11年生の学業成績を一言で振り返るのであれば、それは大成功であった。勉強のペース配分、課題の消化、持ち得るリソースの有効活用、様々な視点において効率が良かったと言えるだろう。それらがもたらした結果は学年順位の大幅な伸び率であり、それは1学期、2学期と継続的な成長を見せた。

 

11月の終わり、青年は夏休みに入った。高校生として最後の夏休み。最終学年が間近に迫った最後の夏休み。青年に残された時間は少なく、これをいかに有効活用するかが大事になってくることは明らかであった。これまでは英語の強化に重点を置いていた夏休みだが、今の青年は違う。まだまだ英語は改善の余地が十二分にあるが、それ以上に今は学業における点数獲得が優先される状況となっていた。

 

青年は机に齧り付くことを嫌った。根本にあるアジア人特有の『ガリ勉』に対する苦手意識は健在である。自由に使える夏休みの時間の大部分を、青年は飲食店でのバイトに費やした。ボンボンの級友が親に買い与えられたベンツの新車で登校するのを横目に、自力で買った中古車で登校する自分自身に誇りを持っていた。先日発表された成績のトップ10で本格的なバイトをしているのは青年だけであった。

 

青年は自分が『天才』ではないことを理解していた。謙遜でもなんでもなく、純粋な意味で自分を天才に届かぬ存在であると認識している。学年順位の大きな入れ替わりが起こった1学期ではあったが、上位4人の名前は今まで見ていた名前がそのまま揃っていた。青年が更に順位を伸ばした2学期、上位4人の名前は入れ替わることもなくそのまま残っていた。一見するとただ物静かそうなトップ4の1人は小説の大会で受賞し、一見するとただのテニス好きなトップ4の1人は国際数学コンペの代表になっていた。勿論、そんな彼らも必死に勉強をして切磋琢磨をしていることは理解しているが、彼らが勉強以外に別の「何か」を持っていることは空気感からも分かるのだ。

 

青年は天才に対抗する術を考え、安易なプライドを見つけた。バイトを継続しながら成績上位の維持を目標としたのである。青年の進学校はそもそもバイト経験者の数が少ないような高校だったので、青年は異質な存在であった。男子高校生にプライドは大事である。英語で勝てず勉強で勝てない世界に身をおいても、青年は謎のプライドを捨てなかった。

 

しかしバイトに打ち込んでばかりであれば成績順位が簡単にひっくり返ってしまうのは火を見るよりも明らかであるのは順位の総入れ替わりでわかる。よって青年はバイトと並行して自習にも励んだ。やはり一番苦戦していたのは化学なので、化学の復習と先々に学ぶ内容の大まかな予習を過去のノートや教科書を使って重点的に行った。科学の勉強は基礎が大事なので、過去の知識も反復して脳に刷り込む夏休みを送った。

 

数Cの勉強は前回の夏休みを参考にして、再び「天才ピーター」に連絡をとりつけた。ピーターは相変わらず嬉々として授業を引き受けてくれ、新しい教科書を渡すとまるでぬいぐるみを手にした幼児のような瞳で喜び、二日後には完走の報告と授業開始の打診が来ていた。彼はまたしても1日2章の詰め込みで青年の脳を焼いたが、青年もまた11年生の内容と日本の高校数学の知識をしっかりと把握していたため、個人授業はスムーズに進んだ。一部の内容は日本の高校数学と内容がダブっており、特に告げることもなかったが青年が内容を把握していることを察したピーターはこれらの章を音速で消化し、追加の章をノルマに加えてきたので、12年生の教科書の網羅はものの1週間というペースで完了した。

 

夏休みも終わりに近づいた頃には、11年生で学んだ範囲の数学、物理、化学の全ての板書を読み直し、脳への再定着を行うことで12年生の始まりに備えた。これらの知識は軍備であり兵糧である。学校が始まった最初のスタートダッシュに、そして長期的な持久戦に備え、青年は兜の緒を締めなおした。

 

Chapter 7.6 - The Battle Begins

1月、学校最高学年の初日は真夏の暑さとは裏腹にどこかひやりと鋭く冷たい空気感が漂っていた。否が応にも今年の学業成績が来年であれ10年後であれ、今後の大学進級に影響を及ぼすことになるこの状況下において、ここまで勉強にそこまで打ち込んでいなかった生徒達までもが本気になっている様子が眼を通して伺える。これまで授業中にふざけていたグループまでもが真面目に授業に取り組む姿勢を見るのは新鮮であるとともに、やるべき時はしっかりと打ち込める彼らを尊敬した。公立校であればこうはいかないであろうから、やはり勉強をするうえで周辺の環境というものはとても大事であると青年は再認識した。

 

ごく一部の生徒は自分に合わなかった選択科目を変えるが、基本的には11年生の頃の選択科目がそのまま12年生でも続くため教室の顔ぶれに変化はなく、青年は周りを普段通りの勉強仲間で固めた陣地につく。数学では周りを助けることで自身の理解を深め、化学や物理では共に切磋琢磨しながら問題集に挑んだ。日本語の授業は相変わらず数学などの宿題をこなす時間となり、必須科目の英語においては直向きにC評価を目指して行動する日々が続いた。科目によっては総合成績の12%ほどに影響する小テストが隔週毎に行われたが、これらの対策も中間テストほどの勢いで対策、復習して挑んだ。周りの全員に火がつき、周りの全員がライバルと化した青年には、この1%の成績が未来を大きく左右すると察していた。

 

課題もまた点数割合の大きいものが多く、総合成績点の810%ほどに該当するものであったため、これらの完成には全力を尽くした。化学の論文は3000字を超える大作に仕上がり、物理の課題は現代エネルギー問題から考慮した新たな期待と可能性を求められている以上にまとめた。これらの課題を書くうえで勿論英語の壁は問題になったが、この頃になると青年の文章構成速度は格段に上がっていた。文法にはまだまだ穴がたくさんあったが、伝えたいことはしっかりと伝わる文章が頭で構成でき、それをそのままキーボードに打ち付ける技術がそこにはあった。化学や物理の教師達は、英語の教科を担当しているわけではなかった。青年の書く論文やまとめは、その文法こそまだ安定はしないが、この「化学」や「物理」という視点における理解や論文構成、持てる知識と事実から紡いだディスカッションは評価されたため、A評価以上を連発した。青年の書く文章は、英語としては完璧ではないが、伝えたい内容をちゃんと伝え、理解力を示すことは問題なくできるレベルに達していた。

 

12年生になっても基本的には週1でのバイトを続行しており、秋休みにはシフトを増やしていたが、残りの休みの多くは課題や復習に費やされた。仕事は楽しかったし自由に使える金を得られることは高校生にとって大きかったが、それでもバイトのシフトは期末試験の4週間前から完全に断った。青年は年齢的に安い給料でキッチンからホールまでほぼ全ての仕事が可能な英語と日本語を喋れる戦力になっていたため、店長からは惜しまれ引き止められたが、試験後にシフトを増やすことを約束しこれをキッパリと断った。バイトを続けるこだわりはあるが、学生が学業を二の次にしてしまっては本末転倒である。

 

中間テストを乗り越え、課題を提出し、期末試験を戦った。12年生の1学期が終わる頃、青年の成績ランクは学年7位に収まっていた。11年生後半では12位から8位まで上がった成績も、更に気合を入れ直し英語力も増したこの年には8位から7位までしか上がらなかった。上位には相変わらずの名前が並んでおり、青年は成績戦争における自分の立ち位置と限界を察し始めた。

「ここからは防戦になる。下剋上の時代は終わった」

校内新聞を手に青年は悟り、呟いた。学年7位という成績は、狙っているOP1に入るか入らないかのボーダーラインではあるが可能性は十二分にある。無論、残りの半年も全力を尽くして上を目指すが、それは上にいる天才達もまた同じ気持ちだ。きっと自分が達せられる成績は学年7位辺りがその限界となるだろう。OP 1の可能性はある。獣医学部の道は楽観的に確定的とは言えないが、圧倒的に現実的だ。ならばそこに見える光が示す道標を守れ、と青年は思った。下にはこの立ち位置を狙う級友達でひしめいている。ある意味で蜘蛛の糸のようだ、と青年は感じた。それは細い細い一筋の糸のようだった。上へと繋がるその道は細く危うく、下にはたくさんの手が伸びている。糸はこれ以上太くならないであろう。であれば今あるその糸にしがみついてやる。地獄を経験し、地獄を這い上がってきた青年にとって、その糸は人生で何本目の糸なのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter 8(最終話)>>>

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